人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

見えざる導師③

2020-04-16 11:52:29 | ガイダンス
私がいつも言っている、"意識を向ければパッ!"、と見えない何かがハタラくもので、もっとそれが人格的なものとして感じられるものを私は"見えざる導師"と言っているのです。
何度か触れているように、そういう実体、霊体みたいなものを見たことは一度も無く、その導き方でも言葉、音声など形あるものとして伝えられることは無いのです。
人はそういうもので、その実在性を疑わずに、信じてしまうのかもしれませんが、私は見たい、聞いてみたいと本気で思ったことは一度もありません。
しかし、もしそういう超能力的なもので、現れたらどうだったでしょうか?
ここで、その導きというものが、どういう風になされるのか、と言うと...そのように通常見えないものを見よう、聞こえないものを聞こうという思いが抑えられてしまい、自分の内側から、言葉でなく、直感的に"見えるもの、聞こえるもの、形あるものに囚われてはならないi"、"そのように思いを絶えず巡らしたり、留めていてはいけないi"、というような促しを受けるのです。(これらのことは、精神的な道を歩む上で極めて重要なことと言わねばならないでしょう)
実際はそういう否定系で伝えられることはほとんど無く、ただ自然とそう強く感じてくるのです。
もう一つ重要なことを言えば、(見えざる導師が臨在した)そこに、愛、平安、リアリティといったものが感じられて、このものが指標となり、自ずとそうでないものとを識別されるようにも導かれる訳です。
だから...超能力的な方向へは意識が向かないのですi
これ、この普段、とりとめのないことで頭が一杯で、いつも何かに囚われている、思われた私だけからは、そういうものは開かれないでしょう。自分を超えたところで"示される"からそうなるのです。
私は私を超えたもの無しには、超えることは出来ないのです。いつも眠りこけている私は、そこから覚ましてくれるもの無くしては目覚めることが出来ず、すべてをゆだねると言っても、ゆだねられるもの無しにはなし得ないのです。
この意味で見えざる導師は、絶対他者ということが出来るでしょう。
古来、精神的な道において、如何に導師という存在が必要不可欠なものとされてきたか、ということがこれで知られるでしょう。
これにはラマナ.マハルシがそうであったし、又自身で言っているように、肉体を持った、"見える導師"である必要は無いのです。
そうは言っても、それは全く私自身にパーソナルに関わるもので、どこを切っても血がドクドクと流れてくるようにも人格的なものです。この意味で他者というか、他人行儀なことでは全くありません。
私がすべてを包み隠さず、開けっ広げに出来るのは、その御前においてしか無いのですi
見えざる導師は、思われた自分以上に私自身すぎるものでもあります。だからその導きに自ずと赴かざるを得ないのでしょう。
それは誰にとってもそうなのでしょうか?
それは、あなたがあなたの偽らざる本心に訪ねてみれば、自ずと示されることでしょう。
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