"私は神と一つである"
今ではスピ界隈などで、こうした言葉が飛び交うことも当たり前のようになりました。
しかし、中世ヨーロッパに限らず、かつては神秘思想家などが語るこうした言行により、何人もの人が火あぶりなど残忍にも死に追いやられてしまったのです。
とにかく、それは極刑に値する罪と見なされていたのです。
現代でも主流のキリスト教などでは神秘思想を危険視する向きも多いのですが、一体何が危険なのでしょう? 自分たちの奉じる教えが脅かされるからでしょうか?
それが精神のバランスを欠く異常な事態を誘発するからでしょうか?
それについて私は、これまでほとんど人類全体と言ってもいいくらいの規模で、軽々しく神人合一などと説くことは危険で、罪深いものだ、ということが意識の根底に刷り込まれてきたように感じています。
そして神というものに対して何か我々から超越した支配者の如きもの、罪を裁くもののようなイメージを根強く植え付けられてきたようです。(実際にそういう取り締まり官のような神的な存在も居た、居る?のかもしれませんが、私は"直接知りません")
それは何故でしょう? あくまで想像ですが、有史以前、かつて神と一つに、いや神に成り代わったように自我を肥大させてしまった人間が人類を滅亡させてしまった"歴史"があったのではないか、と思っています。おそらく思考、感情、欲望などを意のままに出来るようになったために招いたことなのでしょう。
そういうことなら、現代でもある種の神秘思想は危険なものだと思います。それを罪深いものとして封じ込めてしまう理由も分かります。
その理由を端的に言えば、"思われた自分が神と一つなのではないi"、ということに尽きるでしょう。
も一つ言えば"思われた自分はそんなに悪くない、罪な人間じゃないi"、ということです。
いつも言うように、思われた自分からは何も始まって来ない...神的な恩寵に与るということは、思われた自己の限界、無化を示されることに他ならないのです。
思いを手放すことで、否恩寵により、手放されることで、超越的な、怒れるものと思われた神が、実に愛そのものである、私よりも私に近しいものである、ということが示されるのです。
神にへりくだることは、決してモラルのことではありません。そうならざるを得ないのです。へりくだる御方を前にするならば...
このことが分からない、思われた自分がだんだん神と一つになって行くように思い込んでいる人間は本当に、ホントーに無知という他ないでしょう。
それは今、見えない恐怖の前に為すすべの無い状態に置かれてみて分からされるのではないでしょうか?
無知な人間が"私が世界を救います"とか、イロイロなこと言って、トライしようとして踊り、踊らされているようですi
そして真摯に意識を向けるものには、思いを超えた智恵が与えられ、"実の神"の道が開かれるでしょう。
今ではスピ界隈などで、こうした言葉が飛び交うことも当たり前のようになりました。
しかし、中世ヨーロッパに限らず、かつては神秘思想家などが語るこうした言行により、何人もの人が火あぶりなど残忍にも死に追いやられてしまったのです。
とにかく、それは極刑に値する罪と見なされていたのです。
現代でも主流のキリスト教などでは神秘思想を危険視する向きも多いのですが、一体何が危険なのでしょう? 自分たちの奉じる教えが脅かされるからでしょうか?
それが精神のバランスを欠く異常な事態を誘発するからでしょうか?
それについて私は、これまでほとんど人類全体と言ってもいいくらいの規模で、軽々しく神人合一などと説くことは危険で、罪深いものだ、ということが意識の根底に刷り込まれてきたように感じています。
そして神というものに対して何か我々から超越した支配者の如きもの、罪を裁くもののようなイメージを根強く植え付けられてきたようです。(実際にそういう取り締まり官のような神的な存在も居た、居る?のかもしれませんが、私は"直接知りません")
それは何故でしょう? あくまで想像ですが、有史以前、かつて神と一つに、いや神に成り代わったように自我を肥大させてしまった人間が人類を滅亡させてしまった"歴史"があったのではないか、と思っています。おそらく思考、感情、欲望などを意のままに出来るようになったために招いたことなのでしょう。
そういうことなら、現代でもある種の神秘思想は危険なものだと思います。それを罪深いものとして封じ込めてしまう理由も分かります。
その理由を端的に言えば、"思われた自分が神と一つなのではないi"、ということに尽きるでしょう。
も一つ言えば"思われた自分はそんなに悪くない、罪な人間じゃないi"、ということです。
いつも言うように、思われた自分からは何も始まって来ない...神的な恩寵に与るということは、思われた自己の限界、無化を示されることに他ならないのです。
思いを手放すことで、否恩寵により、手放されることで、超越的な、怒れるものと思われた神が、実に愛そのものである、私よりも私に近しいものである、ということが示されるのです。
神にへりくだることは、決してモラルのことではありません。そうならざるを得ないのです。へりくだる御方を前にするならば...
このことが分からない、思われた自分がだんだん神と一つになって行くように思い込んでいる人間は本当に、ホントーに無知という他ないでしょう。
それは今、見えない恐怖の前に為すすべの無い状態に置かれてみて分からされるのではないでしょうか?
無知な人間が"私が世界を救います"とか、イロイロなこと言って、トライしようとして踊り、踊らされているようですi
そして真摯に意識を向けるものには、思いを超えた智恵が与えられ、"実の神"の道が開かれるでしょう。