人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

全一なる私

2020-04-07 11:08:19 | 現臨、ハタラキ
ついに東京に緊急事態宣言がi
しかし、それですぐにロックダウンや"外出禁止i、出たらしょっぴかれる!"、って事態にならないらしいので、一安心...
"安心してる場合かi"、つったって、こういう時だからこそなんですi
やるべきこと、出来ることはやって、後は心安らかでいたいじゃありませんか?
私は内向的な反面、とにかく外に出たがる人間で、ここ何十年も嵐の日も、雪の日も、肺炎みたいな病に見舞われた時(これは今一寸反省してます)も、出なかった日など無かったと言っていいくらいです。
で、矛盾した言い方ですが、外ではあまり外向的じゃありません。ゆったり本を読んだりして結構内向的なことしてます。
外気を浴びながら...そうですi 気こそがプネウマー風、気息であり、命なのです。
こういうことがもし禁止事項になってしまったら本当に死活問題になりゃしませんか?
中国道教などで言われるように、こういう外からお借りして、摂取したりする気だけでなく、元々生まれ出る以前から我々の内に備えられている内気というのもあります。
外でゆったりと意識を向けるでなしに、向けるようなことになっていると、外気と内気が相交わり、自ずと自分の中も外も生命の気に包まれてくる感じを覚えます。
"じんじんと..."、というのはこういうことを言っているのです。
そして、そこで、"私というものは思われたものではない"、ということが実感されるのです。
肉体が私なのではない、精神が私なのでもない...魂が...いやいやそのように私を何ものかに帰着させてしまう心性自体、所詮観念の所作という他ありません。
肉体のみしか認めない唯物論も、それに反し"肉体は無いi"、と信じようとする偏った精神主義も...このように心身が分離し、観念が遊離したところに愛もリアリティも見い出されることは無いでしょう。
肉体だけが、精神だけがあるのでもなく、神的なるものにあって、私は一つになり、又全的なものになっているのです。
玉城康四郎先生は、この消息を"全人格体"と言い表しております。
先生によるとある仏典には、人間生命が受胎して、胎内で発育して行く模様が記述されているとのことですが、そこには見えるはずの無い、命、ぬくもり、心(識)のことも記されているのだそうです(玉城康四郎「生命とは何か」/法蔵館刊)。
仏教に限らず元々人間存在は、心身一体、全一なるものとして認識されていたのでしょう。
世の中全体が分離化しつつある今、私は一方でそれが分裂した人間を個体的にも、再び一なるものへの統合を促進させているのを感じてやみません。
コメント
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