人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

呼応する息吹き

2020-04-09 12:08:52 | 祈りと瞑想
私はいつも当たり前のように、"意識するか、しないかしている内に、パッと現臨に包まれる"、とか言ってますが、勿論最初からそうなっていた訳ではありません。
こうした自分の力を超えたもの、恩寵といったものの消息は、主として手島郁郎、小池辰雄両先生を通じて知らされ、学ばされてきたのです。
かなり書籍化されている、その臨場感溢れる講話で、「主のご愛を思うとわしゃもう、たまらんi」と叫ぶ手島先生に触れ、又小池先生などは、直接集会で何度となく「いや、もう、この主様のみ恵みには圧倒されますi ...アタシャ有り難くてしょうがないi」と聞かされていたのですが、最初はどうしてそうなってしまうのか、皆目理解出来なかったのでした。
多くの方も感じているであろうように、私は、"そうなるにはそれだけの修行とか努力をしなければならない"、といった先入観が抜けなかったようで、両先生の言葉に"無性に惹かれながら"も、判然としない思いで居たのです。
で、今から思えば私は最初から、知らずして"思いを超えたもの消息"を示されていたと感じざるを得ません。
つまり、惹かれてやまないものを感じていた... 無自覚にそこに愛、平安があることを知らされていたのですi
"見えない導き"というのは、正にこういうものであり、ずっと理屈でなしにそのものに導かれたと言っていいのです。
このことが自覚的になったのは、おそらく自分の内なるものに意識が向けられるようになったからでしょう。
自己の外から恩寵として感じられるものだけでなく、内側から表に出よう、顕れようとする"内催し"のようなものを意識するようになってからで、これも思いを超えたところから来るのは言うまでもありません。
こちらは、主として玉城康四郎先生の「形なき命ーダンマは業熟体たる我に浸透し、顕れてやまない」という言葉に触れたのが契機となっているのです。
このように見ると、聖霊というか、ダンマというか、生命の息吹きというものは、呼吸作用のように外部からこちらに貫き、浸透し、中から表出して行くという、全くそれ自体が愛の作用のようにも、呼応し続けてやまないものであることが分かります。
愛、平安というものはここから感じられるものに違いありません。
ここで意識するとか言っても、それは根本的には意識される、"そうさせるものがある"と言った方が適切で、これも呼応ということを物語っているのでしょう。
このように書いている、書かされているのは、祈りだか瞑想だか、書いているのか、ただ無為に過ごしているのか、これからしばらくこういうことになってる状態が多くなるのかな、という私の訳の分からん日常についてのものなのでした。
どうしてそうなったかは、実際よお分からんのですが...
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