"神のことは分からない"
これは言うまでもないことですが、神のことは頭脳知で分かろうとしても分からない、ということを言っているのです。
だけど、一歩心の奥から感じてみると、逆説的に"こんなにも分かりすぎる、自明なものはないi"、と言ってもいいのです。
分かることの意味合いが何故こうも全く違うのか? それは取りも直さず思念を超えるか、どうかということから来るのです。
どうして、多くの人はこの命そのもの、それ無くして自分が生きることすら出来ないものなのに、どうでもいいことに囚われ続けているのか、不思議で仕方ありません。
とにかく、自分が生きている先にここに息づいている...これほど自明なものはありませんi
どうでもいいことの最たるものとは、神についての分かったような、決めつけた言説の数々でしょう。
それらは一様に"信じて下さいi"、と言わんばかりの口調です。
自明なものとは、他からのそんな有難迷惑な借り物ではなく、自ずから明らかなこと...私やあなたが直接感じ取るしかないことなのです。
我々は思いを超えた領域で、創造主、神と出会うのです。そうでなければ"数多の思い描いた神"という被造物を造り出してしまうのですi
自明なこととは説明することは困難なものだけど、説明を要しないことでもあります。
何故ならば、誰もが知っていることだからですi 心の底で。(けだし、自明なことではないかi)
私が(表層ー人生の表側ーで)知っている限りでの人間に関すること、なかんずく自分自身のことはすべて裏側で、神的なもののうちにその淵源があることが示されるのです。
例えば、人間には人格があると信じられています。そういう人間は又神にも人格があると信じていたりします。
私はしかし、いくら考えても人間にも神にも人格があって、それがどういうものかは分かりません。
これは到底言葉に言い表せないものだけど、裏側を垣間見れば、全く神は私の根底において、私自身の根っこのようにもパーソナルに結び付いているのを感じずにおれないものがあるのですi それは全く私自身のことであって、他に代えることの出来ないものです。
哲学などで語られる、人格というものは抽象的でよく分からないものですが、内奥で具体的に感じられたものを通して、何となく"あ、こういうものか?"ということが示されるのです。
このように実に神のことは、人間のこと、自分自身のことと相即していることが、思念でなしに、意識が深まるほど明らかになってくるのです。
今の時、何かカウベルのように耳鳴りがより強くなってきて、観念でない、"実の神"の顕現がありやかになってくるのを覚えます。
これは、どこまでもかけがえの無い一人一人の道においてであるのは言うまでもありません。
これは言うまでもないことですが、神のことは頭脳知で分かろうとしても分からない、ということを言っているのです。
だけど、一歩心の奥から感じてみると、逆説的に"こんなにも分かりすぎる、自明なものはないi"、と言ってもいいのです。
分かることの意味合いが何故こうも全く違うのか? それは取りも直さず思念を超えるか、どうかということから来るのです。
どうして、多くの人はこの命そのもの、それ無くして自分が生きることすら出来ないものなのに、どうでもいいことに囚われ続けているのか、不思議で仕方ありません。
とにかく、自分が生きている先にここに息づいている...これほど自明なものはありませんi
どうでもいいことの最たるものとは、神についての分かったような、決めつけた言説の数々でしょう。
それらは一様に"信じて下さいi"、と言わんばかりの口調です。
自明なものとは、他からのそんな有難迷惑な借り物ではなく、自ずから明らかなこと...私やあなたが直接感じ取るしかないことなのです。
我々は思いを超えた領域で、創造主、神と出会うのです。そうでなければ"数多の思い描いた神"という被造物を造り出してしまうのですi
自明なこととは説明することは困難なものだけど、説明を要しないことでもあります。
何故ならば、誰もが知っていることだからですi 心の底で。(けだし、自明なことではないかi)
私が(表層ー人生の表側ーで)知っている限りでの人間に関すること、なかんずく自分自身のことはすべて裏側で、神的なもののうちにその淵源があることが示されるのです。
例えば、人間には人格があると信じられています。そういう人間は又神にも人格があると信じていたりします。
私はしかし、いくら考えても人間にも神にも人格があって、それがどういうものかは分かりません。
これは到底言葉に言い表せないものだけど、裏側を垣間見れば、全く神は私の根底において、私自身の根っこのようにもパーソナルに結び付いているのを感じずにおれないものがあるのですi それは全く私自身のことであって、他に代えることの出来ないものです。
哲学などで語られる、人格というものは抽象的でよく分からないものですが、内奥で具体的に感じられたものを通して、何となく"あ、こういうものか?"ということが示されるのです。
このように実に神のことは、人間のこと、自分自身のことと相即していることが、思念でなしに、意識が深まるほど明らかになってくるのです。
今の時、何かカウベルのように耳鳴りがより強くなってきて、観念でない、"実の神"の顕現がありやかになってくるのを覚えます。
これは、どこまでもかけがえの無い一人一人の道においてであるのは言うまでもありません。