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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

外なる神、内なる神

2020-04-14 12:00:00 | 
神については何度も書いておりますが、ここいらで、これまでに分かったことを書いてみたいと思います。
結論から言うと...何も結論らしきことは出てこない、ということが分かりました。(笑)
私も端的に"神"と言ったりしますが、"現臨"と言ったり、"見えざる導師"、あるいは"すべてを見透す光"と言ったり、同質に感じられるものを少しく感じ方が異なることを言い換えて表現しているのです。
ということは、それに対して定まった、決めつけた表現はしていない、出来ないということなのです。
私は"守護霊、守護神"という言い方はあまりしませんが、それは、そこから実在性を云々される、存在論と結びついたり、自分の外に別在した存在といった、依存信仰を助長させるような固定したイメージを持たせてしまい勝ちになるからに他なりません。
しかし、それは全くこの限られた自己に超越し、又何らかの守護、導きに関わるものには違いないのです。
最近のスピの教えでは、宗教的で無くなって来たとはいえ、それなくしては何事も始まってこないものについて、蔑ろにされているように思えて不思議でなりません。
(ちなみに偏って理解され勝ちな、この守護の神霊についての教えを広めた五井先生は、それは"自己の内なる直霊の分かれである"、ことを述べております)
一方で、依存信仰に懐疑的な人間が自己に別在した神的、霊的存在のことは引っ込めて、自らの内なる力、叡知に依ろうとする理由も分かります。
こういう人は、多分に信仰的な人間が容易く神のことを口にすることに反感を持っているようです。無批判に周囲に迎合してしまう心的態度が依存信仰なのだ、と。
そうした中には"神は我が内にお在す"という内在信仰もありますが、観念的に信じられているだけなら、短絡的神信仰と同じでしょう。
大雑把ではありますが、この二つの意識の有り様を巡って、主として仏教に見られるように"自力か、他力か"という風に別れてしまうようです。
私がいつも感じてしまうのは、"何故どっちかでなきゃならないのか?"、ということです。
神というのは自己に超越しているとも、内在しているとも、もっと言えば実在しているのか、どうか("実在して無ければ無い!"、とは絶対に言えないのですi)ということさえ、決められないではありませんか?
これを思うと、私は、多くの人が如何に神についての先入観、先見に縛られているか、ということを感じずにおれません。
だから...人が言っている神でなく、"あなたの神に聞くべしi"、と言いたいのですi 本当に聞く気があるのであれば...
これは、"あなたの神は、あなた自身の真実かもしれない..."、ということであり、自分の本心に聞くということと同じことでしょう。
私はもう、希求し続けるしかありません。私がそうなるだけでなく、私の中から促され、呼び覚まさずにおれないものがあるから...
神は分からないものだけど、こんな分かりやすいものはないのですi
コメント
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