精神的な道においては、常に思いが開かれていることが極めて大切なことです。
信仰生活などではいつの間にか、自分の信念、観念といった思いがのさばり、"生ける、実なる神"を覆い隠し、その発露を塞いでしまうことにもなり勝ちです。
とにかく自分の思いを過信してはならないのです。盲信者、狂信者には中々理解出来ないことでしょうが...。
私なんかはそりゃもう、思いなんかはとっくに超えちゃってる訳で、そんな心配は及ばない...とは言えない訳で、そういうのがアブナイと思ったか、実はかつてその"現臨"とか"見えざる導師"を一応疑ってみたくなったこともあるのです。
(これが、例えば何かが見えたとか、聞こえたとかいう場合でしたら、むしろ疑わないとダメでしょう)
そこで思い付いたのが、それが本当のものなのか、どうか神に伺ってみよう、占ってみようということなのでした。
これ、どういうことか分かります?...神のことを神に占うってことですよi 常人にゃ考え付かないことでしょ?
そこで、本当だったら首が勝手に頷く、という簡単な決めごとのもとにやってみたのです。
すると、もう首がどうなるってこと以前に、即答らしいことが瞬時にパッと示されたのですi
意識がパッと向いた途端、全身に響き渡るようにも感じたことなのです。もう、疑うヒマがありません。
それからすぐそれが消えて、別の何かざわざわとした、"心ここにあらず"の方に向かわせる何かが覆い始めて来て、こんな思いが過りました。
"僕は一体何てバカなことをしているんだろう?...あの御方がいちいち首をアゲサゲさせたり、あるいはそんなおマジナイみたいなことに答えたりするだろうか?"
そして...悪い予感が..."もしかしてそうなってしまうんじゃないか?"、ということが正に起きましたi
あの"現臨感"といったものが消えてしまったのです。こうなる理由はおそらく疑念(これはどういうものであっても思念に基づくものです)を挟んだためです。
だけど、私が"クビにされる"以前に、イエスかノーか尋ねる以前に、ダイレクトに即答は与えられていたのですi...
よく考えてみたら、何度も言っているように現臨にあるということは思いを超えているということなのです。
それは、私が初めてそれに捉えられた時、全く疑うことは出来なくなってしまったことで示されていたことなのです。
だけど、それでもどこかで"実の神"を覆い、取り込もうと思念が忍び寄るとも限らないものです。
だから、常に思いは開かれてある必要があるのです。
あの占いごとは、ホントは神を試すことじゃなくて、私の"不退転の信"をテストしたのかもしれません。
もしかして...上からやらされていたのかも?
しばらく消えてしまった、"あの感じ"もすぐ戻りました。
ホントのこと言えば、"何が本当か?"と何かに尋ねたりすることも迷いから出てくるものでしょう。
ホントに本当のものを目の当たりにしたら、ウソでも本当でもどっちでもよく、迷い、疑念なんて無いのが本当でしょう。
ああいうマネは、滅多にするもんじゃないですが、それを通して学ばされたことでもありました。
信仰生活などではいつの間にか、自分の信念、観念といった思いがのさばり、"生ける、実なる神"を覆い隠し、その発露を塞いでしまうことにもなり勝ちです。
とにかく自分の思いを過信してはならないのです。盲信者、狂信者には中々理解出来ないことでしょうが...。
私なんかはそりゃもう、思いなんかはとっくに超えちゃってる訳で、そんな心配は及ばない...とは言えない訳で、そういうのがアブナイと思ったか、実はかつてその"現臨"とか"見えざる導師"を一応疑ってみたくなったこともあるのです。
(これが、例えば何かが見えたとか、聞こえたとかいう場合でしたら、むしろ疑わないとダメでしょう)
そこで思い付いたのが、それが本当のものなのか、どうか神に伺ってみよう、占ってみようということなのでした。
これ、どういうことか分かります?...神のことを神に占うってことですよi 常人にゃ考え付かないことでしょ?
そこで、本当だったら首が勝手に頷く、という簡単な決めごとのもとにやってみたのです。
すると、もう首がどうなるってこと以前に、即答らしいことが瞬時にパッと示されたのですi
意識がパッと向いた途端、全身に響き渡るようにも感じたことなのです。もう、疑うヒマがありません。
それからすぐそれが消えて、別の何かざわざわとした、"心ここにあらず"の方に向かわせる何かが覆い始めて来て、こんな思いが過りました。
"僕は一体何てバカなことをしているんだろう?...あの御方がいちいち首をアゲサゲさせたり、あるいはそんなおマジナイみたいなことに答えたりするだろうか?"
そして...悪い予感が..."もしかしてそうなってしまうんじゃないか?"、ということが正に起きましたi
あの"現臨感"といったものが消えてしまったのです。こうなる理由はおそらく疑念(これはどういうものであっても思念に基づくものです)を挟んだためです。
だけど、私が"クビにされる"以前に、イエスかノーか尋ねる以前に、ダイレクトに即答は与えられていたのですi...
よく考えてみたら、何度も言っているように現臨にあるということは思いを超えているということなのです。
それは、私が初めてそれに捉えられた時、全く疑うことは出来なくなってしまったことで示されていたことなのです。
だけど、それでもどこかで"実の神"を覆い、取り込もうと思念が忍び寄るとも限らないものです。
だから、常に思いは開かれてある必要があるのです。
あの占いごとは、ホントは神を試すことじゃなくて、私の"不退転の信"をテストしたのかもしれません。
もしかして...上からやらされていたのかも?
しばらく消えてしまった、"あの感じ"もすぐ戻りました。
ホントのこと言えば、"何が本当か?"と何かに尋ねたりすることも迷いから出てくるものでしょう。
ホントに本当のものを目の当たりにしたら、ウソでも本当でもどっちでもよく、迷い、疑念なんて無いのが本当でしょう。
ああいうマネは、滅多にするもんじゃないですが、それを通して学ばされたことでもありました。