人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

為すすべの無い時にあって...

2020-04-01 10:11:58 | 祈りと瞑想
「もし、人間の内にある、名付けられず、名を持たないもの(概念と観念を超えた魂の底)が完全に神に向かうなら、それに従って、人間の内にある名を持つすべてのものも神に向かうのです」(ヨハネス.タウラーー中世ドイツの神秘思想家ー「タウラー全説教集第3巻」行路社刊)

今、世界的規模で人間は、自然界よりの見えざる敵の猛威の前に、為すすべの無い状態に置かれています。
これ、万物の霊長と言われるがまま、思い描いた通りに、わが世の春を欲しいままに生きてきた我々の現実の姿を、まざまざと見せつけられている思いがします。
見えないものとは本当に分からないものであり、恐ろしいものであり、又畏れなければならないものでしょう。
そして、恐るべきものと畏るべきものとは何と隣り合わせのものなのでしょうかi
今、我々は否応なしに、見えないものに意識を向けざるを得なくなっているのですi

意識を神的なものに向けるとか、自ずとそれに向けられるとか、私は自分が感じたままをずっとテキトーに言ってきたにすぎないのですが...
こういうことは、古来より宗教など精神的道において、幾多もの先人たちが言い続けてきたことなのです。
意識とはまさに、心、思いというものの底にあるもの...これは何人にも、例えば重度の病に見舞われている時など、あれこれ思考を巡らすことも困難な状況にあっても、"自分はここに病に臥して苦しんでいる..."と気付くことが出来るのがそれで、思考することは出来なくとも、向けることは出来るのです。
否、そのこと自体が意識しているということの内にあることと言ってもいいのです。説明するまでもないごく自然なことです。
そして、それが瞑想と言われようと、祈りと言われようと、説き方、行じ方は様々なれど、要するに思いを超えたもの、神的なものに意識が向けられ、つながればいいのです。
これがなおざりにされるものは、すべて"根っこの無い枝葉のようなもの"とみて差し支えないでしょう。
私はあの教えがいいとか、この方法がいいなどとは言いません! 今はもう、そういう枝葉のことでどうなるという時ではないでしょう。
押し付けがましいことは抜きで、あくまで皆さんの自由な、開かれた心で本当に畏れるものに、向き合って親しんで頂きたいのですi
それで見えない敵を撃退出来るかどうかは知りません。(出来ると思っている向きは、まだ本当の壁を知らないお気の毒な人ですi)
ただこれだけは言えます。神的なものと共にあれば、苦しみから解放される...起きている状況は変わらないとしても、"苦しんでいる状況は変わる"のですi
いや、もしかしたら、ウイルスまでもが神的なものに向きを変えるのかもしれません。こんなところに奇跡的治癒の原理があるのかもしれません。

我々はもはや為すすべが無い...
為すことは、為さざること(無為)あるのみ...
神の道はすべての道...
コメント
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