人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

簡単なことから始まる

2020-11-01 10:40:33 | 祈りと瞑想
"神に意識を向ければ、思いが離れて行く..."
"神に意識を向ければ、私という思いが離れるほど、私自身になって行く..."

何度となく書いてきたことですが、そういうことが感覚されることはあっても、それが何故であるかは、上手く説明出来ないのです。
説明すると、理に囚われますしね。言っちゃえば、簡単なことなんですが、神はチッポケな私を超えた、すべての私、全一の私に関わるものだからです。
自分は自分だけで生きている訳じゃない、このものによって生かされているのだから、そっちがこの生の主体という風に感じられます。
ここで神というのは、仮の表現で、現臨してくるものというか、そういうものの代名詞みたいなものです。
"意識を向ければ、向かわされる"、って言うけど、そういうものが先に無ければ向けられません。あるから向いちゃうのです。
私が...、とか主我的な思いもそういうもの無しでは、どこにも向けられない...その思いをスポイルさせてしまうものがある...私のように生来自意識過剰な人間にとり、これがとても大きな意味を持っていることは言うまでもありません。
この神的なもの無しには何も始まってこないのです。
それは、唯一神であるとか、自分の外に居るとか、中にとか、決めつけないことが肝心です。思念では捉えられないのですから...
自分の中にも廻りにも満ちている...ただ、このものと共にあればいい...
私は色んな瞑想の方法とか、やり方というものを否定している訳じゃないですが、この霊の息吹きと共にあれば、人為的なものは身に付かなくなり、無為的なハタラキに化されてしまうのです。
私が悟ろう、とか思わなくても、このものに乗っかっていたらいいのです。
こう考えれば、まずこのものを召喚することが真っ先に為されねばならないことのようにも感じますが、そのように赴かせるもの、出よう、出よう、こちらに出会おうとするものが感じられるのです。
これに会わされ、合わされてゆくだけ...
神のハタラキが弥ましに働いて下されば、神も人も、人と人も弥栄になるということなのでしょう。

"意識を向ければ..."、そんな簡単なことだけで、そんなことが始まるのか、と思うのは、実際始まってしまえば、そんな思いはどっかへ行ってしまいます。
これは、何でも無いようなことと思ったらとんでもありません。人生の裏側が開かれるということというのは...
"こうでなければ..."とか、"うんと多く、長く..."とか難しいことの方が何でも無いことなのでしょう。
コメント
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