私は大して仕事出来ないのに、古参という理由だけからか、時折一グループのリーダーを任されることがあるのですが、これがもう疲れるのなんの...
普段にも増して精神的疲労が半端ありません。
先日は5人のメンバーだったのですが、一人自分勝手に判断し、行動しちゃう感じの人が居まして、その理由を"優しく"問いただすと、ツベコベと言う...私は、いつもはリーダーとしては頼りないくらい、人に気兼ねしてソフトに接しているのです。
しかし...そういうことが重なり、それもある重要な件でそういうことがあって..."おい、お前、人の話ちゃんと聞けよi 、コラあ~i"
あまりの私の豹変ぶりに近くに居た人なんか凍りついてました。(私の二重人格の本性が出てるだけです)
こういう人は、自分が正しいと思っているから、色々理屈を言います。そして自分がやらかしたことでも謝ることが出来ません。周りの人間皆に迷惑がかかります。
いや、もうホント扱いにくくて困っちゃいます。トラブルの種を巻かれるくらいなら、何もしない、出来ない人の方がずっとマシです。(ああ、老子の世界に行きたいi)
人間誰しも、自分は正しいと思っているものですね。そうでないと生きられないとも言えます。これは、もう生来からそのように作られているということなのでしょう。
だから、自分が悪い、間違っていても、非を認めたくない、保身に走ったりしてしまうこともやむを得ないことだと思います。
こういうことは、日常イヤというほど見せられている通りですね。これは全くもって、それを見ているあなたや私のことなのですよi
この事実に気付けるか、どうかでその人の人生は大きく変わったものになることでしょう。
これは程度の問題(この違いってのが微妙ながらも大きいことなのですi)になりますが、宗教とかの狂信者によく見られる、強固に自分が正しいと思い込んでいる人間は気付くことが出来ないのです。こういう人ほどアブナイ人間なんですi
こうして何かを発信している人でも、間違ったことを発信して、それに気付き、反省したことを発信することが中々、コケンに関わるのか、出来ないようです。
"訂正しろi、反省しろi、コラあi"...私が言いたいことはそういうことじゃありません。
人間は自分で非を認めたり、反省することが出来ない生き物なんですi
自覚の有る無しに関わらず、そこにそう赴かせる人の言葉なりの媒体や、直接的には、それに隠されたある反射させる光のようなものが必要なのです。
反省だけならサルでも出来ます(ちと古いCM見てた人なら知ってる)。非の擦り合いならいつも国会とかでやってます。(あのな、ツベコベ文句言うんなら、お前が総理大臣でも、5人ばかしの仕事デキナイ人のリーダーにでもなってみろi)
"私は自分の思いを超えた光によって、気付くことが出来たi"...、こういうことを伝えることが出来たなら、どれだけ、それだけで周りに光を灯すことが出来ることでしょう。
光が当たるということは、自分の中の闇が見えるということです。本当の闇とは、その闇を見ようとしないことではないでしょうか?
これはとりもなおさず、自分はそういうものとは無関係だと装うことでしょう。
その自覚があれば、ネットなどで溢れかえっているような、誹謗、中傷などむやみに出来なくなるでしょう。
世の中は今、救いようのない、どこに出口が有るのか分からない、闇の袋小路に追い込まれている様を映し出しているようです。
だけど、そういうことを我が身のこととして意識を向ければ、これはあの光と闇を分かつ、照射を受けることと隣り合わせのことだ、ということが見えてくるようです。
普段にも増して精神的疲労が半端ありません。
先日は5人のメンバーだったのですが、一人自分勝手に判断し、行動しちゃう感じの人が居まして、その理由を"優しく"問いただすと、ツベコベと言う...私は、いつもはリーダーとしては頼りないくらい、人に気兼ねしてソフトに接しているのです。
しかし...そういうことが重なり、それもある重要な件でそういうことがあって..."おい、お前、人の話ちゃんと聞けよi 、コラあ~i"
あまりの私の豹変ぶりに近くに居た人なんか凍りついてました。(私の二重人格の本性が出てるだけです)
こういう人は、自分が正しいと思っているから、色々理屈を言います。そして自分がやらかしたことでも謝ることが出来ません。周りの人間皆に迷惑がかかります。
いや、もうホント扱いにくくて困っちゃいます。トラブルの種を巻かれるくらいなら、何もしない、出来ない人の方がずっとマシです。(ああ、老子の世界に行きたいi)
人間誰しも、自分は正しいと思っているものですね。そうでないと生きられないとも言えます。これは、もう生来からそのように作られているということなのでしょう。
だから、自分が悪い、間違っていても、非を認めたくない、保身に走ったりしてしまうこともやむを得ないことだと思います。
こういうことは、日常イヤというほど見せられている通りですね。これは全くもって、それを見ているあなたや私のことなのですよi
この事実に気付けるか、どうかでその人の人生は大きく変わったものになることでしょう。
これは程度の問題(この違いってのが微妙ながらも大きいことなのですi)になりますが、宗教とかの狂信者によく見られる、強固に自分が正しいと思い込んでいる人間は気付くことが出来ないのです。こういう人ほどアブナイ人間なんですi
こうして何かを発信している人でも、間違ったことを発信して、それに気付き、反省したことを発信することが中々、コケンに関わるのか、出来ないようです。
"訂正しろi、反省しろi、コラあi"...私が言いたいことはそういうことじゃありません。
人間は自分で非を認めたり、反省することが出来ない生き物なんですi
自覚の有る無しに関わらず、そこにそう赴かせる人の言葉なりの媒体や、直接的には、それに隠されたある反射させる光のようなものが必要なのです。
反省だけならサルでも出来ます(ちと古いCM見てた人なら知ってる)。非の擦り合いならいつも国会とかでやってます。(あのな、ツベコベ文句言うんなら、お前が総理大臣でも、5人ばかしの仕事デキナイ人のリーダーにでもなってみろi)
"私は自分の思いを超えた光によって、気付くことが出来たi"...、こういうことを伝えることが出来たなら、どれだけ、それだけで周りに光を灯すことが出来ることでしょう。
光が当たるということは、自分の中の闇が見えるということです。本当の闇とは、その闇を見ようとしないことではないでしょうか?
これはとりもなおさず、自分はそういうものとは無関係だと装うことでしょう。
その自覚があれば、ネットなどで溢れかえっているような、誹謗、中傷などむやみに出来なくなるでしょう。
世の中は今、救いようのない、どこに出口が有るのか分からない、闇の袋小路に追い込まれている様を映し出しているようです。
だけど、そういうことを我が身のこととして意識を向ければ、これはあの光と闇を分かつ、照射を受けることと隣り合わせのことだ、ということが見えてくるようです。