人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

踏み止めるもの

2020-11-18 11:59:02 | 秘教、その他団体
何度か書いているように、私は昭和58年夏、精神的な目覚めを通して、今生では与れないような愛、平安を実感することが出来たのです。
ところがそれは、あのじんじんとした感覚が自然消滅し、まだそれを回復すべく、スブドの門を叩く以前のことだったのです。
どうして、そんな"冬眠中"にそんなことが起きたのかは未だに分かりません。その眩いばかりの体験もすぐ元の木阿弥になってしまったのも自然の流れだったのかもしれません。
それも私の奥の方の意志でか、見えざる導師の意志でか、いつしか封印され、意識の傍らに追いやられて行ったのでした。
これは私がスブドに関わっていた間、特にそういう状態になっていたのです。
そうして、この秘教団体?に加わって約半年後だったか、突如私はその人間関係でのある摩擦を経験しました。
同じ支部のTという人がいきなり私に噛みついてきたのです。
何かのミーティングの席のことだったのですが、私には全く彼がそんな態度に出るという心当たりが無いので、ホントにびっくりしました。
「俺は何か気に障ることを言ったか?」と隣の友人のMさんに訊いたら「彼は明らかにあなたに悪意を抱いて口撃しているんですよi」との感想を漏らしていました。
これで私の中に"彼は要注意人物i"という黄色信号が点灯されることになりました。
この後彼とはギクシャクとした人間関係を送らざるを得ないハメとなり、同様のことが何度か繰り返されたのです。もっともこれはあくまで私の言い分であり、彼にしてみれば、私の方が危険人物(多分、そうでしょう。何が危険なのかはともかく)に映っていたかも分からないのです。
ある時、彼が大概の理性をもった大人なら言うのをはばかるような、露骨なネガティブな言葉を発してきたことがありました。
私は、ハラワタが煮えくりかえる思いが込み上げて来て、「おい、何してんだ、お前も言い返さないか、倍返ししたれ、それとも溜め込んだ感情を一気に爆発させて、取って置きのヤツをお見舞いしてやるかi」というような感情の声のそそのかしも聞こえてきました。
しかし、その時それを踏み止ませるもう一つの声があったのです。
「お前は知っているはずだ、心の底に刻まれているものを...それを知らないということがどんなに苦しいものか、彼はその苦しみの中でもがいている...お前も苦しみ、もがいている、だがお前は知っているだろう、踏み止めるものがあることを...」
この時の私は、理性的な自制心や、倫理的なことに結び付いた感情が、それを踏み止めているくらいにしか感じていませんでした。
ラティハンの修練においては、理性のブレーキが外される...ここで書いていることは、時にそれが修練を飛び越えて日常生活に影響を及ぼす、という危険性があるという一例を取り上げているのです。
そこには何か重大なことが欠落していると見るべきで、それが私がやめた大きな理由の一つでもありますが、ここでは詳しく触れません。
タガが外れた世界では、怒濤のように押し寄せて来る感情の前には、そういうごリッパな道徳感情なんか、つっかえ棒にもなりません。
しかし、その時内側で私を引き止めていたものは、そういう感情で説明出来るものでは無かったのです。
といって、それが何であるのかはよく分からないですが、具体的に、根本的に心身にハタラキかける、ある道徳ならぬ"律"的なもののことです。"原律"とでも言いましょうか?
そこには愛と平安が刻印されているのです。
私はそこで吹き出して来る悪感情に任せて泥試合に応じることも出来たでしょう。
しかし...もし、それであの至福の世界を閉ざすようなことになったなら..."魂の修練だかのヘチマも無いi"...生きる意味そのものを失うことになっていたでしょう。
コメント (4)
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