人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

深みの次元

2020-11-05 11:44:29 | 哲学・思想
私は以前には、人生の指標となるものは、考え方にあるものだと"考えて"いた時期がありました。
そうした書物を読んで、先人が提示する人生の考え方に共鳴して、それを拠り所にして生きて行こうと思ったのでした。
いや、先人はその書物で、必ずしも何かの思想を展開していたとは限らないのに、勝手にこちらの分別識に取り込んで、思想として捉えたりしていたのです。
イエスやブッダや老子の言葉も、"これは、到底言葉で言い表すことは出来ない"、という神秘"思想"も一種の思想にすぎないという訳です。
こういう考え方のみの理解の仕方というものは、長続きしないし、何も残りません。観念信仰と同じで身につかないのです。
それもそのはず、五井先生じゃないけど、思いというのは"消えてゆく姿"なのだから...
私は過去を振り返ってみて、何が成長して、何が堕落したのかは分かりませんが、ハッキリとそういう理解の仕方は過去のものになったなあ、と感じています。
身につかない、ということは、自分と思想というものが二つになっていて、例えば人生論というものがあったとしても、それが私自身の人生には少しも即したものとはならない、ということです。
身についている、私に即しているか、どうかというのは、実に具体的に、ハッキリと分かるものです。
考えたって分かるものではなく、具体的な感覚で分かるのです。こういうことは、何ごとによらず、ホントに、ホントーに大きいことなんです。
そう、"じんじん"とした、あの感じ...(いつもながら、これを言葉で伝えられないことが実にもどかしい...)
この感じが伴っていないものは何も残らないのです。
それは、ドイツの神学者パウル.ティリッヒが言った、"深みの次元"に根付いていないからでしょう。
深みの次元を喪失した精神においては、生ける神の、聖霊の消息も生命を欠いた、諸々の思想の枠組みの中に閉ざされてしまう...逆にこれに根付いた思想といったものは、単なる思想を超えて生きたものになるのでしょう。
深みの次元とは、思考次元を超えた、純粋意識の次元と言ってもいいでしょう。
ある思想(らしきもの)に共感、共鳴すると言う...それは深みの次元からもたらされ、あるいはそれに届いているものなのだろうか?...私はその識別が分からなかったのですが、その中には識別することを超えて、感じているものは確かにあったのです。
そういうものは、その感じと共に確かに今もここに息づいています。
コメント
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