人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

自分を超えたものが目覚める

2020-11-08 09:39:42 | 覚醒
私が日頃、精神的目覚めや意識の変容といったことについて、基本的に感じていることを改めて書いてみます。とても大事なことなので...。
"思いを超える"、ということ、そうでなければ、そういうことに与ることは出来ない、といつも言っています。
これは、誤解し勝ちなことですが、自分"が"思いを超えるということではありません。
自分が...、ということは、"自分の思いから"、ということに他ならないのですから...
中には断食とか絶食とか、色々な修行、メソッドに取り組み、一時的に思いから離れることもあるかもしれません。
だけど、"自分で思いを超えた"、という念はずっとあるんじゃないですか?
これ、自分の思いから出発して、地球を一周して、又そこに戻ってくるようなことじゃないですか?
そこで、"自分は目覚めた、悟ったi"、と錯覚したりして...どこまでも主我的なことから抜けきれず、その自覚も無いまま、自我がますます肥大化することにもなりかねなくなるのです。
こういうことは、その目覚める主体というもの、何が目覚めるのか、ということが明らかになっていないところからくるのでしょう。
思われた自分が目覚めるということではない...これは言い方は微妙ですが、ここの理解の在り方次第で、天と地ほどの開きが出てくるようなことなのです。
して、自分が感じた通りのことを有り体に言えば、"自分を超えたものが目覚める"、ということになるでしょうか?
表層意識に隠れていた、自我性を超えた意識が顕わになる、ということ...元々思いを超えたものが表れる...だから自分が思いを超えようとトライするのは、一寸ズレたことと言わざるを得ません。
要するに、業生の自分が目覚めたり、悟ったりする訳じゃないということです。
そして、この超個的な私の顕現は、何らかの神的なものが臨むような機縁によって、あたかも磁石に、他の鉱物は置かれたまま、鉄分のみが引き寄せられるように、その臨在と一つにされてゆくのです。
この超個的なハタラキの前には、思われた個我意識は場所を譲らずに居れなくなる...主体の転換がなされる...そういう劇的変容の様を思われた私は、為すすべもなく、傍観者のように見てるより他ありません。
自分が...という思いが強いということは、その思いを超えたものの表出する通路を塞ぐことに他なりません。
意識を常に開いていることが如何に大切かが知られるでしょう。
内なる神性というもの、それは思われた私以上の、私そのものに違いありません。
しかし、思われた私にとっては、絶対他者であることも確かなことなのでしょう。
コメント (5)
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