人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神の幻想と現実

2020-11-25 12:43:10 | 
言うまでもないことですが、私が書いていることに絶対性など無いので、信じ込んだり、追従したりしても無意味です。
もっとも、訳が分からないので、そうなりようもないのかもしれませんが...
とにかく、何かの信仰の押し売りをやっているのではありませんi そういうのはやるのも、されるのもムシズが走りますi
所謂信仰ごとというのは、ある宗教なり、教祖なりの教えを観念で画一的に信じ、従わせられていることで、それは、一人一人が直接的に真理なりを示される在り方ではないということですね。
例えば、"神は元々人間一人一人の内に在るんですよi"、という教えがあったとして、そう観念的にオウム返しに信じ従っているだけだったら、いつまで経っても、身につかず、自分自身の確証(人に確証してもらうことじゃない)にはならないのです。
しかし、そういうのがただの信仰ごとでなく、"私は直接知り得たのですi、と言われちゃあ、どうしようもありませんi  "ああ、そうなんですか"、と言う他ありませんね。
だからと言って、アタシャ、そういうことを短絡的に信じ、従うつもりなんか無いi...と、こういうことをここで言っている訳です。
私が他に向けて書いていることに絶対性など無い、と言いました。しかし、もしそれが私に直接示されたものであれば、私自身には絶対的な意味を持っているのですi...
だから、"これが絶対的な真実なんだ、信じ、従いなさいi"、とついやっちゃうことなんですi
多くの教祖さん、教師たちは多分そういうことをやっているんだと思います。一人一人の身のことはお構いなしに...
ホントは、"絶対的"という言葉自体、適当でなく、権威というものと結び付けられるようですが、私が直接示されたことに照らせば、それを"疑うことが出来ないi"もののことです。
疑えないということは、観念ごとじゃないということです。身につく、とかつかないというよりも自分自身と分離していない、ということです。
で、こういうことは 、この考えている自分からはそうなりようがないことなので..."そう在らしめるものこそは絶対なんだi"、というのは私の信仰告白みたいなものの訳で...
"じゃあ、それを私も信じてみましょうか..."、なんて"抽象的な信仰ごときものになる訳無いでしょ"、ということを書いているのです。
そんな訳で、あなたの真実は、あなたの神に聞くしかないのですi...信仰の強要でなく。
人間のあーだ、こーだという思いを超えたものを神的なものと言っているのです。
ところが、それが他に向けて絶対的な真理のようなものとして、主張された途端、語る方も聞く方も思考に取り込まれてしまうのです。
人が唯一絶対の真理のように語っているものこそは幻想でしょう。
他人が言っていることに、何が楽しくて"お追従"なんてしていられるでしょうか?
それで幸福に与れるのならそれもいいでしょう。
だけど、"直に"もたらされる"愛、平安、リアリティ"というものはそういうものの比では無いのです。
"それは観念の域を出ないものなのか、疑うことが出来ないところから来るのか"、知りたければ徹底的に疑ってみればいいのです。
疑っても疑っても払拭出来ないものがある...これを言い換えれば、惹かれてやまないものということでしょう。
その神があなたに何を告げるかは分かりません。人それぞれでしょう。
何にせよ、それは受け入れるしかありません。それで例えば"神は元々私の中にある"(それが真実かどうかはさておき)という信仰は崩れ去ってしまうかも分かりません。
けれど、少なくとも、そこで神的なもののリアリティは示されるはずでしょう。それが現実ということです。
神というもの程、幻想と現実をくっきり映し出すものは無いと感じざるを得ません。

コメント
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