人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

霊的修練と人生の修練

2020-11-17 12:22:13 | 秘教、その他団体
昭和54年の春頃、突如ある思いを超えた感覚が私に芽生えたのですが、約一年半程して自然消滅してしまったのでした。
これは日常生活でどういう風に受け取られるのか、分かりやすく言うと、何か背後からアシスト、ガイドしてくれるようなもの、前方で指標となってくれるようなものを感じなくなることです。
もっと具体的に、身体的に感じられることは、じんじんとしたある種のバイブレーションみたいなものが感じられなくなるということです。
この感覚は、前にも書きましたが、それから約6年半後、「ラティハン」という霊的修練を伝える「スブド」なる団体と関わることで復活したのでした。
私が初めて兵庫県伊丹市にあった、到底何かの秘教的な教えを伝授しているようには思えない、そのみすぼらしい関西の支部の会場を訪れたのは昭和61年の11月のことでしたが、行ったら即その秘儀伝授に与れる訳でなく、三ヶ月間は見習いに甘んじなければならなかったのです。
この辺りは面白いことに、それ以前の「道院紅卍字会」と全く同じパターンを踏まされていたのです。(あっちでは既にその秘儀「先天の坐」は実修を許されていましたが)
道院とスブドというのは、それぞれ道教と回教と、その母体となった宗教こそ違えど、世界宗教は大本では一つであるという趣旨を掲げている点は共通しているのですが、初めて接した印象は、あっちの秘密結社ぽい雰囲気とは大違いなのでした。
翌年、2月正式に会員となり、ラティハンの実修に勤しむことになり、あのバイブレーションを取り戻すことが出来たのですが、根底的なところは同じ感じなのですが、あの坐法でか、自己流の祈りでかにより芽生えた感覚とは、微妙に違うように感じられました。
端的に言えば、ラティハンから来る感覚の方が強力なのです。もう、自意識ごともってかれそうになるくらいです。
それだけ、思考マインドから切り離されて、純粋意識の次元が開かれ易くなると言えるでしょう。
私はそこでいわゆる"スペース状態"というか、意識が拡大する感じを初めて体感しました。
ただ、それは中心に収斂されてゆく感じを失いそうになる面もあり、関連してこのことは、理性の抑制が効かなくなり、よりいっそう精神のバランスが乱れるという危険にさらされる、ということでもあるのです。
私は、"大生命力"の前には、人間理性など暴風雨に百均のビニール傘を差すくらい、無力なものであることを理解しました。
そして、スブドのアチコチで、フツーの大人だったら、理性的に対応出来るような人間関係のやり取りが、"子供のケンカ"レベルで行われているのを何度も見ました。いいや...
私自身もその渦に巻き込まれたことも何度もあります。
私自身は、その修練により(自覚されている限りですが)、多少ハイになったくらいで、日常生活の上で危険な目(クライシス?!)に会ったことは一度もありません(これは言い換えれば、さして大きな体験など無かった、ということでもあるでしょう)。
本当にアブナイ目に会うというのは、どうもこういうことらしい...そしてこうした戦いこそが、人生の上での本当の修練とは言えないでしょうか?
スブドの創始者「バパ.スブー」が、「ラティハンには忍耐が必要です」と言っていた意味が身に染みて分かったような気がしました。
ともあれ、私にあの思いを超えた世界の消息がよみがえったのです。そう、あの愛と平安の消息が...いいや...
"それは確かに在った、感じられた...私の根底において"...しかし、それは多く悩ましい人間関係の試練とか、諸々の思いによって見えなくなっていたと言わねばなりません。
そしてあの"スブドを離れる"という決断は正しかったのか、今でも分からないことなのですが、忍耐行に疲れたか、4年後脱退することに決めたのでした。
"あの感覚が再び消滅してもいいのだろうか?...愛と平安を感じられなければ無い方がマシだi 一人間としてi"...
なーんて、私は消滅してしまう感じは実は受けていなかったのです。
そして、その感覚は、途中何度か失う"危機"にもさらされましたが、今もなお続いているのです。
コメント (2)
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