精神的な道においては、思いを超えたものに与ることが極めて重要であることは、クドイほど言っていることです。
言うまでもなく、それにより自分の思いと、それを超えたものとが識別されるのです。
これが分からないと、いつまで経っても、思いの世界にすぎないものに真実性があると"思い込み"、何らかの発信をしている人などは、自分も迷い、周囲の人間も迷わせ続けることになるのです。
その多くの場合、自分自身が確かめた訳でも無いのに、例えば、霊界や何次元の世界のことや、悟りに至るには何段階も踏まなければならないとか、(某宇宙人画伯が信じているように)それには通常言われるチャクラの他に、霊的なチャクラを開かなければならない(肉体的なそれもよく分かっていないにも関わらず、そんなものは聞いたことないi)とか...他人の言葉の受け売りが持ち運ばれ、それが又不特定多数の人間へと"安売り"されてゆくのでしょう。
ある教師に信従したり、ある教えに依拠してゆくこと自体が悪いこととは思いません。
しかし、誠実な人間であるならば、人の言葉を借りるにしても例えば、これは誰それの言葉であることを明示し、自分自身にはその真実性は分からない、従ってその取捨は、各人の判断でゆだねられるべきことを表明するものでしょう。
こういう例は、滅多にお目にかかることがありません。
かくして宗教、スピ界隈には、盲信、狂信、虚偽、盗用...がはびこり、スピリチュアルなものこそは、リアルなものであることを見えなくさせてしまうに至るのです。(もう、この界隈は、死霊のさまよう、精神の墓場と化したようではないかi)
要するに、かような思念、観念の奴隷とは、没個性的な集合的観念に取りつかれ、自分自身に向き合い、そうあることが出来ない人間、主体性の欠如した人間なのです。
こういう人は内省することが出来ません。
自分が信じ込み、発信していることが、本当に自分の心の底からの表れなのだろうか? これが蔑ろにされるならば、"本心"の開発、悟りといったことなど、その入り口にも立っていない、ということを知るべきなのですi
誠実であることは、他人にも自分の本心にも誠実であるということです。これはモラルの問題ではありません。
"私は本当は何も知っていないi ...私自身のことが分かっていないのだから..."
このような自覚から、思いを超えたものへの道が開かれるのです。
それは、自分の限界が示される、ということに他ならないのだから...そこに超えたものが予感されるのです。これは予断(他から持ち込まれる、思い込み、定見)を許さないことなのですよi
いつも言うように、こういうことは、思われた、考え続ける自分からは開かれません。
しかし...自分自身、本心に誠実であるならば、神の方があなたを放っておかないでしょう...。
本心と神的なものとは切り離されないものなのだから...。
言うまでもなく、それにより自分の思いと、それを超えたものとが識別されるのです。
これが分からないと、いつまで経っても、思いの世界にすぎないものに真実性があると"思い込み"、何らかの発信をしている人などは、自分も迷い、周囲の人間も迷わせ続けることになるのです。
その多くの場合、自分自身が確かめた訳でも無いのに、例えば、霊界や何次元の世界のことや、悟りに至るには何段階も踏まなければならないとか、(某宇宙人画伯が信じているように)それには通常言われるチャクラの他に、霊的なチャクラを開かなければならない(肉体的なそれもよく分かっていないにも関わらず、そんなものは聞いたことないi)とか...他人の言葉の受け売りが持ち運ばれ、それが又不特定多数の人間へと"安売り"されてゆくのでしょう。
ある教師に信従したり、ある教えに依拠してゆくこと自体が悪いこととは思いません。
しかし、誠実な人間であるならば、人の言葉を借りるにしても例えば、これは誰それの言葉であることを明示し、自分自身にはその真実性は分からない、従ってその取捨は、各人の判断でゆだねられるべきことを表明するものでしょう。
こういう例は、滅多にお目にかかることがありません。
かくして宗教、スピ界隈には、盲信、狂信、虚偽、盗用...がはびこり、スピリチュアルなものこそは、リアルなものであることを見えなくさせてしまうに至るのです。(もう、この界隈は、死霊のさまよう、精神の墓場と化したようではないかi)
要するに、かような思念、観念の奴隷とは、没個性的な集合的観念に取りつかれ、自分自身に向き合い、そうあることが出来ない人間、主体性の欠如した人間なのです。
こういう人は内省することが出来ません。
自分が信じ込み、発信していることが、本当に自分の心の底からの表れなのだろうか? これが蔑ろにされるならば、"本心"の開発、悟りといったことなど、その入り口にも立っていない、ということを知るべきなのですi
誠実であることは、他人にも自分の本心にも誠実であるということです。これはモラルの問題ではありません。
"私は本当は何も知っていないi ...私自身のことが分かっていないのだから..."
このような自覚から、思いを超えたものへの道が開かれるのです。
それは、自分の限界が示される、ということに他ならないのだから...そこに超えたものが予感されるのです。これは予断(他から持ち込まれる、思い込み、定見)を許さないことなのですよi
いつも言うように、こういうことは、思われた、考え続ける自分からは開かれません。
しかし...自分自身、本心に誠実であるならば、神の方があなたを放っておかないでしょう...。
本心と神的なものとは切り離されないものなのだから...。