私は暑さが大の苦手でして、ここんとこの急な暑さの到来に早くもバテ気味なのです。
昨日は一時、何か心ここにあらず、地に足がつかない感じになってしまいました。
これはもしや、五井先生のことを批判的に書いたバツなのかなあ、なんてことも思ったりもしたのですが...困った時には、そうだ、「世界平和の祈り」を称えるのがいいんですよi この場合、"内なるものが開かれる"云々ということは関係ないんですからねi
あの時もそうだった...昭和53年の暮れ...。
"いつまでも先生に依存してたらダメなんだi"...それまで特別な師として、崇拝に近いような気持ちで接していた、五井先生から意識的に離れる決心をした直後のことでした。
"意識が飛びそうだi、気が狂ってしまうんだろうか、死んじゃうんだろうか、バチが当たったんじゃあるまいか?i"...
初めて、ハッキリ意識が変容したことを経験した時、実にキケンな精神状態に晒されていたのです。
これは初めて必死で、むちゃくちゃ祈っていたことで引き起こされたことで、又それによってか、心の平静さを取り戻したという顛末だったのです。あ、そうそう、そういや、"五井先生ーっ"、て叫んでましたっけ(笑)
この時、意識は飛ばなかったですが、明らかに思考は飛んでしまっていました。"思いが超えられる"、という端緒はここにあったのです。
これ以降、私にある感覚が芽生えたのです。
現臨感覚というのもそうです。あの窮地から救われたのは、"私はここに在る"~これは、自己、自己を超えたもの共々が在るというニュアンスです~という、実存感覚によるもので、それも現臨とつながっているのは言うまでもありません。
当時、中国の宗教結社、道院(まだ見習い期間中だった)で伝授された「先天の坐法」を修していたのですが、そういう影響からか、それ以降、顕著な変化が感じられるようになりました。
"気"というものの存在、その動き、巡り、自分の意志で集中しようとしなくとも、自ずと意識が集まるような感覚などです。
これは、十数年途絶えていた期間もありましたが、現在でも続いているものです。
ただ、一つ違うのは、耳下線の部分というのか、ほっぺたから後頭部にかけて膨張するような感覚が鳴りを潜めたということです。
これは、精神の高揚感に伴うもので、どっちが先かはよく分かりませんが(同時?)、ある種の宗教的、スピ的な本を読んでいるだけで、よくそうなりました。(ぱっと読んだだけで、ぱっとそうなる)
書店で、どの本を選ぶかはこれで決めていたほどです(笑)...で、そういう本というのは、"ぷくーっ"とはならないけど、大体今でも愛読書です。何でこの時、立て続けにそうした本に巡り会ったのかはよく分かりませんが...
こういう経験を通して、それまでとは観方、感じ方がハッキリと変わったことは、それまで短絡的に信じ込んでしまう傾向のあった、自分で確かめられないような、霊界の存在とか過去世のこととか所謂オカルトめいた話についてのことです。
つまり、現臨感覚、私の実存と直接つながらないものとは区別されるようになったのです。
これは、そのまま思考~思い描いた世界と、それを超えた世界との区別と言い換えてもいいでしょう。
又、それまで、霊、霊なるもののことについては何回も耳にしていたし、思い、イメージを膨らませもしてきました。
だけど、それはどこまでが現実で、どこまでがファンタジーであるか、全く曖昧なものだったのです。どちらかというと、現実遊離したものという風に捉えられていました。
しかし...「霊なるものこそは現実である」(ベルジャーエフ)ことにこの頃目覚めたのです。これには、精神が高揚せずに居られないというもの...
もっとも、それは多く予感めいたものの内に知らされていたのでしたが...。
昨日は一時、何か心ここにあらず、地に足がつかない感じになってしまいました。
これはもしや、五井先生のことを批判的に書いたバツなのかなあ、なんてことも思ったりもしたのですが...困った時には、そうだ、「世界平和の祈り」を称えるのがいいんですよi この場合、"内なるものが開かれる"云々ということは関係ないんですからねi
あの時もそうだった...昭和53年の暮れ...。
"いつまでも先生に依存してたらダメなんだi"...それまで特別な師として、崇拝に近いような気持ちで接していた、五井先生から意識的に離れる決心をした直後のことでした。
"意識が飛びそうだi、気が狂ってしまうんだろうか、死んじゃうんだろうか、バチが当たったんじゃあるまいか?i"...
初めて、ハッキリ意識が変容したことを経験した時、実にキケンな精神状態に晒されていたのです。
これは初めて必死で、むちゃくちゃ祈っていたことで引き起こされたことで、又それによってか、心の平静さを取り戻したという顛末だったのです。あ、そうそう、そういや、"五井先生ーっ"、て叫んでましたっけ(笑)
この時、意識は飛ばなかったですが、明らかに思考は飛んでしまっていました。"思いが超えられる"、という端緒はここにあったのです。
これ以降、私にある感覚が芽生えたのです。
現臨感覚というのもそうです。あの窮地から救われたのは、"私はここに在る"~これは、自己、自己を超えたもの共々が在るというニュアンスです~という、実存感覚によるもので、それも現臨とつながっているのは言うまでもありません。
当時、中国の宗教結社、道院(まだ見習い期間中だった)で伝授された「先天の坐法」を修していたのですが、そういう影響からか、それ以降、顕著な変化が感じられるようになりました。
"気"というものの存在、その動き、巡り、自分の意志で集中しようとしなくとも、自ずと意識が集まるような感覚などです。
これは、十数年途絶えていた期間もありましたが、現在でも続いているものです。
ただ、一つ違うのは、耳下線の部分というのか、ほっぺたから後頭部にかけて膨張するような感覚が鳴りを潜めたということです。
これは、精神の高揚感に伴うもので、どっちが先かはよく分かりませんが(同時?)、ある種の宗教的、スピ的な本を読んでいるだけで、よくそうなりました。(ぱっと読んだだけで、ぱっとそうなる)
書店で、どの本を選ぶかはこれで決めていたほどです(笑)...で、そういう本というのは、"ぷくーっ"とはならないけど、大体今でも愛読書です。何でこの時、立て続けにそうした本に巡り会ったのかはよく分かりませんが...
こういう経験を通して、それまでとは観方、感じ方がハッキリと変わったことは、それまで短絡的に信じ込んでしまう傾向のあった、自分で確かめられないような、霊界の存在とか過去世のこととか所謂オカルトめいた話についてのことです。
つまり、現臨感覚、私の実存と直接つながらないものとは区別されるようになったのです。
これは、そのまま思考~思い描いた世界と、それを超えた世界との区別と言い換えてもいいでしょう。
又、それまで、霊、霊なるもののことについては何回も耳にしていたし、思い、イメージを膨らませもしてきました。
だけど、それはどこまでが現実で、どこまでがファンタジーであるか、全く曖昧なものだったのです。どちらかというと、現実遊離したものという風に捉えられていました。
しかし...「霊なるものこそは現実である」(ベルジャーエフ)ことにこの頃目覚めたのです。これには、精神が高揚せずに居られないというもの...
もっとも、それは多く予感めいたものの内に知らされていたのでしたが...。