感覚。
感覚というと、熱いとか冷たいとか痛いとか、肉体に結び付いたものしかないと思っている人もいるかもしれません。
しかし、誰しも例えば、あそこへ行くと何となく心地よいとか、薄気味悪いとか、肉体的でなくとも"体感"しているのではないでしょうか?
それとも、そういうことは意識せずに、"思い過ごして"しまうのでしょうか?
私が数十年前に突如芽生えた感覚というものは、単なる肉体的感覚ではありません。
といって、体感的なものが無いという訳でもなく...じゃあ、霊感か?...霊能力が発現した訳でもありません。
私がこの時実感したことは、肉体的なことと精神的なこととは、元々つながっているということ...つまりその感覚は、心身の分けられないものだったのです。
これを便宜的に内的感覚と呼んでいるのですが、これが霊性を深めて行く上でのベースになっているのです。
現臨感覚、何か超越的なものによって照らされていく感じ~照明、何かに導き、守られている感じ...これらはすべてこの感覚のバリエーションと言ってもいいのです。
心身は分けられないものだけど、単なる思い、マインドとは分けられねばなりません。このことはいつも意識付けられていることです。
考えても分からないことを考え続けて、空想、妄想してたって、いつまで経っても霊性は開かれるものではないのですから...
このことで、思いを超えたものが意識されるのです。いや、意識されるから思いが超えられるのか?
何でもいいけど、意識と内的感覚はつながっているのです。
最初は微妙に感じられるものでも、考えごとのようにしないことがコツです。といって考えまいと念じたりするのでもなく、感じていたらいいのです。
内的感覚というのは、難しく考える必要ありません。自分が自分で居られる感覚と言ってもいいのです。
そこには、"私は在る"感覚、安心、愛が感じられる...不快だったり、恐ろしい感じは、内的には感じられません。どうもそういう時は、内的に閉じられているように感じられますねえ。
要するに、自然に、本来的に感じられるものなのです。
ということは、これから修行して開発し、獲得するものじゃないってことです。
だから、難しく考える必要がない...自然に赴くものを感じていたらいいでしょう。
感覚というと、熱いとか冷たいとか痛いとか、肉体に結び付いたものしかないと思っている人もいるかもしれません。
しかし、誰しも例えば、あそこへ行くと何となく心地よいとか、薄気味悪いとか、肉体的でなくとも"体感"しているのではないでしょうか?
それとも、そういうことは意識せずに、"思い過ごして"しまうのでしょうか?
私が数十年前に突如芽生えた感覚というものは、単なる肉体的感覚ではありません。
といって、体感的なものが無いという訳でもなく...じゃあ、霊感か?...霊能力が発現した訳でもありません。
私がこの時実感したことは、肉体的なことと精神的なこととは、元々つながっているということ...つまりその感覚は、心身の分けられないものだったのです。
これを便宜的に内的感覚と呼んでいるのですが、これが霊性を深めて行く上でのベースになっているのです。
現臨感覚、何か超越的なものによって照らされていく感じ~照明、何かに導き、守られている感じ...これらはすべてこの感覚のバリエーションと言ってもいいのです。
心身は分けられないものだけど、単なる思い、マインドとは分けられねばなりません。このことはいつも意識付けられていることです。
考えても分からないことを考え続けて、空想、妄想してたって、いつまで経っても霊性は開かれるものではないのですから...
このことで、思いを超えたものが意識されるのです。いや、意識されるから思いが超えられるのか?
何でもいいけど、意識と内的感覚はつながっているのです。
最初は微妙に感じられるものでも、考えごとのようにしないことがコツです。といって考えまいと念じたりするのでもなく、感じていたらいいのです。
内的感覚というのは、難しく考える必要ありません。自分が自分で居られる感覚と言ってもいいのです。
そこには、"私は在る"感覚、安心、愛が感じられる...不快だったり、恐ろしい感じは、内的には感じられません。どうもそういう時は、内的に閉じられているように感じられますねえ。
要するに、自然に、本来的に感じられるものなのです。
ということは、これから修行して開発し、獲得するものじゃないってことです。
だから、難しく考える必要がない...自然に赴くものを感じていたらいいでしょう。