"神の手がかかる"
これは、私があるスピリチュアルな力に捉えられ、自分の思い、力が後退されることをそう言っているのですが、オショー.ラジニーシなども"マスターズ.タッチ"、と似たようなことを言っているのですね。(そうだった...)
とにかく、いつも言うことは、自分からは自分の思い、力を後退させ、それを超えたものに与ることは出来ないということです。
自分を超えたものが接触してくる...これは、極めて具体的な感覚を伴うものなのです。
神が何かは分からないけど、抽象的な観念でない、アリアリとした神的現存に与るということは、この感覚無しには開かれないと言ってもいいでしょう。
まず、その神的現存が臨む、という現臨感覚というものに与ることが根本的なことです。そこからでなければ何も始まりません。
さらにそれが直接的に力、ハタラキとして感覚されてくることを神との接触、タッチされると言っているのです。
具体的には首筋辺りに、何か引きつれのようなものが感じられ、それが全身に及ぶようになってくる...こないだ、一寸熱中症になりかけたのですが、似たところはありますね。
決定的に違うのは、苦しさ、不快さというものは無く、意識がボーッとなって、地に足がつかないという感じにはならないで、むしろ明晰になって、"私は在る"という感覚が深まってくるというところです。
これとは違う、私はほとんど経験がありませんが、何か別の霊的な力によって、あるいは誰かを通じて、それに近い状態になるという例もあるかもしれません。
これには、現臨、私は在るという感覚が有るかどうか、あるいはそこに愛、平安が感じられるかどうか、ということが重要な見きわめと言えるでしょう。
要するに、見た目にはともかく、それは他から操られたりするものでなく、より自分自身になる、自分の実存が開かれる、ということ...言い換えると、何かに支配されるのでなく、自由になるということです。
私が最初にこういうことになったのは、多分昭和53年暮れの、あのムチャクチャ祈っていて、意識が遠退くような事態に見舞われた時だと思うのですが、そうなる恐怖があったせいか、実はその見きわめは出来なかったのです。
しかし、ひたすら祈り続けているうち、"私はここに居る"という感覚とともに安らぐことが出来たのでした。
ここで肝心なことは、神の手がかかることは、ある霊的な力、そういう作用それ自体に囚われる、捉えられるということでは無いということです。これは、言葉にすれば微妙なようでも、実に大きな問題ですi
神と切り離しても、別の力によってもこういうことは行われるでしょうから...言い換えれば、神と切り離されるから別のものに変質してしまうのでしょう。
ですから、ムチャクチャ祈ることはお勧めしませんが、神そのものを求め、祈ることが大事なのです。
私の経験では、祈っているうち、有難い気持ちになってきたならば、もう、そこに神にタッチされるという端緒はもたらされている、と言えるでしょう。
このことに意識的になってみる...意識的に深まるにつれ、何かがヒタヒタと迫ってくるのが感じられる...そうなると、神にタッチされるのも時間の問題でしょう。
これは、私があるスピリチュアルな力に捉えられ、自分の思い、力が後退されることをそう言っているのですが、オショー.ラジニーシなども"マスターズ.タッチ"、と似たようなことを言っているのですね。(そうだった...)
とにかく、いつも言うことは、自分からは自分の思い、力を後退させ、それを超えたものに与ることは出来ないということです。
自分を超えたものが接触してくる...これは、極めて具体的な感覚を伴うものなのです。
神が何かは分からないけど、抽象的な観念でない、アリアリとした神的現存に与るということは、この感覚無しには開かれないと言ってもいいでしょう。
まず、その神的現存が臨む、という現臨感覚というものに与ることが根本的なことです。そこからでなければ何も始まりません。
さらにそれが直接的に力、ハタラキとして感覚されてくることを神との接触、タッチされると言っているのです。
具体的には首筋辺りに、何か引きつれのようなものが感じられ、それが全身に及ぶようになってくる...こないだ、一寸熱中症になりかけたのですが、似たところはありますね。
決定的に違うのは、苦しさ、不快さというものは無く、意識がボーッとなって、地に足がつかないという感じにはならないで、むしろ明晰になって、"私は在る"という感覚が深まってくるというところです。
これとは違う、私はほとんど経験がありませんが、何か別の霊的な力によって、あるいは誰かを通じて、それに近い状態になるという例もあるかもしれません。
これには、現臨、私は在るという感覚が有るかどうか、あるいはそこに愛、平安が感じられるかどうか、ということが重要な見きわめと言えるでしょう。
要するに、見た目にはともかく、それは他から操られたりするものでなく、より自分自身になる、自分の実存が開かれる、ということ...言い換えると、何かに支配されるのでなく、自由になるということです。
私が最初にこういうことになったのは、多分昭和53年暮れの、あのムチャクチャ祈っていて、意識が遠退くような事態に見舞われた時だと思うのですが、そうなる恐怖があったせいか、実はその見きわめは出来なかったのです。
しかし、ひたすら祈り続けているうち、"私はここに居る"という感覚とともに安らぐことが出来たのでした。
ここで肝心なことは、神の手がかかることは、ある霊的な力、そういう作用それ自体に囚われる、捉えられるということでは無いということです。これは、言葉にすれば微妙なようでも、実に大きな問題ですi
神と切り離しても、別の力によってもこういうことは行われるでしょうから...言い換えれば、神と切り離されるから別のものに変質してしまうのでしょう。
ですから、ムチャクチャ祈ることはお勧めしませんが、神そのものを求め、祈ることが大事なのです。
私の経験では、祈っているうち、有難い気持ちになってきたならば、もう、そこに神にタッチされるという端緒はもたらされている、と言えるでしょう。
このことに意識的になってみる...意識的に深まるにつれ、何かがヒタヒタと迫ってくるのが感じられる...そうなると、神にタッチされるのも時間の問題でしょう。