「健康や富、安全や保証、あるいは地上の平和を祈ってはいけません。神がそれ自身を真理として啓示することだけを祈って下さい」
(ジョエル.ゴールドスミス「スピリチュアル.ヒーリングの本質」/ナチュラルスピリット刊)
私は本を求めるに際して、若い頃の知識がごく浅い時分ならともかく、全く素描の分からない著者のものを求めることはめったにありません。
しかし、数年前古本屋で、その表紙が破れかかって、みすぼらしくなっている本を手に取って...「唯一つ祈るべきことがある。 ...霊的自覚を、聖霊の賜物を求めよ...内部から展開する瞑想が聖霊の賜物を現わす。このような瞑想は、あらかじめ定められた形に従うことは決してない。それぞれの瞑想が、霊的衝動が、流れ出て一つの形を作るのである」(「神を識る瞑想の法」/教文館刊.ー絶版ー)
という文章に接して、電気を受けたようなショックを受けて迷わず求めたのでした。
著者はジョエル.ゴールドスミス。経歴も何も紹介されておらず、一応米国人らしいということ、一読してキリスト者であること、所謂神秘家という括りをしても間違いないであろう、ということ以外何も分かりません。
とにかく、この著者は、私が精神的な道で感じていたこと、私の内に息づいていることを代弁しているように思えてならないのでした。
そして、(M.ベインの「心身の神癒」や、サンダー.シングやラマナ.マハルシのいくつかの書物などと同じく)この書物を読むこと自体が祈りであり、瞑想であるようにも(ここに祈りと瞑想の区別は見い出せない)...
又、その邦題(原題は「The Art Of Meditation」)にあるような"神を識る法"について、具体的なことは何も記されていません。
ただ聖霊、神の現臨を求めること...さすれば、自ずから開かれるであろう...もう、書いているだけで何かが始まる...
最近、上掲のように、ゴールドスミスの別の本が新刊で出され、訳者の高木悠鼓さんにより、ようやくその素描を知ることが出来ました。
スピリチュアル.ヒーラーという肩書きがあるらしいです。
しかし、その本にもヒーリングについての具体的な方法のことは書かれていません。"やり方"花盛りのその界隈にあって...
その"方法無き瞑想法"と全く同じく、神そのものを求めることに重点が置かれているのです。
"心身の不調和な状態、病とはそもどこから来るのか?...我々が意識の中で、そのすべての命の本源である神から切り離されてしまったからではないのか?
まず、意識されるべきは、そのつながりを取り戻すことにこそあるのではないか?
もし、何かの方法により病が癒えたとしても、本源から切り離されたままだったら、別の問題が起こってくるだけだろう...根本的な問題がそのままになっているのだから...
だから、異邦人のように(神が現存していないかのように)神に祈ってはいけない..."
と、いうようなことがここから汲み取れてきます。
ゴールドスミスは、キリスト者であり、聖書からの引用も多いのですが、あくまで"一つの窓"から、すべての本源につながる道を示しているように感じます。
キリスト教は、二元分離主義の最たるもののように見られているし、事実そういう言説も多く見受けられます。
しかし、ここに改めて私が感じることは、本来のキリストの道こそは、ノンデュリアリティそのものだ、ということなのでした...。
(ジョエル.ゴールドスミス「スピリチュアル.ヒーリングの本質」/ナチュラルスピリット刊)
私は本を求めるに際して、若い頃の知識がごく浅い時分ならともかく、全く素描の分からない著者のものを求めることはめったにありません。
しかし、数年前古本屋で、その表紙が破れかかって、みすぼらしくなっている本を手に取って...「唯一つ祈るべきことがある。 ...霊的自覚を、聖霊の賜物を求めよ...内部から展開する瞑想が聖霊の賜物を現わす。このような瞑想は、あらかじめ定められた形に従うことは決してない。それぞれの瞑想が、霊的衝動が、流れ出て一つの形を作るのである」(「神を識る瞑想の法」/教文館刊.ー絶版ー)
という文章に接して、電気を受けたようなショックを受けて迷わず求めたのでした。
著者はジョエル.ゴールドスミス。経歴も何も紹介されておらず、一応米国人らしいということ、一読してキリスト者であること、所謂神秘家という括りをしても間違いないであろう、ということ以外何も分かりません。
とにかく、この著者は、私が精神的な道で感じていたこと、私の内に息づいていることを代弁しているように思えてならないのでした。
そして、(M.ベインの「心身の神癒」や、サンダー.シングやラマナ.マハルシのいくつかの書物などと同じく)この書物を読むこと自体が祈りであり、瞑想であるようにも(ここに祈りと瞑想の区別は見い出せない)...
又、その邦題(原題は「The Art Of Meditation」)にあるような"神を識る法"について、具体的なことは何も記されていません。
ただ聖霊、神の現臨を求めること...さすれば、自ずから開かれるであろう...もう、書いているだけで何かが始まる...
最近、上掲のように、ゴールドスミスの別の本が新刊で出され、訳者の高木悠鼓さんにより、ようやくその素描を知ることが出来ました。
スピリチュアル.ヒーラーという肩書きがあるらしいです。
しかし、その本にもヒーリングについての具体的な方法のことは書かれていません。"やり方"花盛りのその界隈にあって...
その"方法無き瞑想法"と全く同じく、神そのものを求めることに重点が置かれているのです。
"心身の不調和な状態、病とはそもどこから来るのか?...我々が意識の中で、そのすべての命の本源である神から切り離されてしまったからではないのか?
まず、意識されるべきは、そのつながりを取り戻すことにこそあるのではないか?
もし、何かの方法により病が癒えたとしても、本源から切り離されたままだったら、別の問題が起こってくるだけだろう...根本的な問題がそのままになっているのだから...
だから、異邦人のように(神が現存していないかのように)神に祈ってはいけない..."
と、いうようなことがここから汲み取れてきます。
ゴールドスミスは、キリスト者であり、聖書からの引用も多いのですが、あくまで"一つの窓"から、すべての本源につながる道を示しているように感じます。
キリスト教は、二元分離主義の最たるもののように見られているし、事実そういう言説も多く見受けられます。
しかし、ここに改めて私が感じることは、本来のキリストの道こそは、ノンデュリアリティそのものだ、ということなのでした...。