以前には何も感じなかったものが、今はどうにも受け入れ難いものを感じてしまうということがあると思います。
私は最近、十数年ぶりにある本を読み返してみて、そのように感じてなりませんでした。
その著者は修行系の人で、そこには、"私は悟ったのですi 以前のは小悟のようなもので、本当の悟りではなかったのですが、今度のは大悟です。迷いも我欲もありません。完全に悟ったのですi"、というようなことが書かれておりました。
以前呼んだ時は、何も引っ掛かるものは感じず、割りと共感して読んでいたように思ったのですが、どうもスンナリ入って行かないものを感じてならないのでした。
私は完全に悟ったことなどないので、このことについてとやかく言う資格など無いのですが..."私は..."というのがどうも...
迷いも我欲も無くなるんですか、その私って人は? その人が悟るの?(勿論、書かれたものをそのまま受け取ってしまうのは短絡的なことで、著者はただそのような言い回しをしているだけで、ホントはもっと別のことを含ませているのかもしれませんが...主語(私)を使わないと伝わりにくいのも確かではあります)
私はどうしてもこの私が、私自らがそのような境地に達する(?)ようには、リアルに感じられないのです。ということは現実に意識がそのようには赴かないということなのですが...
それ以前には、"私が"悟りを開くことは普通に"考えられていた"のです。これは私だけでなく、大多数の人もそう考えられていたのではないですか?
今、感じられることは...どうも"古いなi"
何か前時代的なものを感じてなりません。私もそういう時代を長く生きてきたということです。
中には、"勝手に古いとか、前時代的なものにするなi"、と感じている人もおられるでしょう。そうです、これはあくまで私の主観を言っているに過ぎないのです。
人にはそれぞれ道がある...その道は現実に意識がそこに向かうことが無ければ、開かれることは無いでしょう。考えているだけでは...又いくら修行をしてもそうなるという保証はありません。
そして、私は今、私でなく、私を超えたものに意識が向けられているのですi
現実にそうなる、ということはかつては無かったのです。
予感はずっとあったのですが...頭では以前から、"私が"悟りを開くなんてことは、もしかしてズレたことなんじゃないか?"、とは思っていました。しかし、現実に開かれて来るものがありませんでした。
"思われた私からではなく、それは私を超えたものから来る"...これが"私の新時代"を告げるものに他ならないのです。
新時代に則せば、悟りが何であるにせよ、私がどう、こうでなく、ただ与えられるままに与るということがあるだけなのです。それが小さいのか、大きいのか、本当のものなのか、半端なものなのかは"与り"しれません。
だからと言って、"私は前時代を卒業して新時代に立っているのです"、なんて言うこととも違うでしょう。
私じゃない、私が変わったのでなく、私が立っている世界の方が、私の"時場"が変わったということでしょう。
あなたにあっては?...知りません。あなたの意識が向かうところに聞いてみて下さい。
私は最近、十数年ぶりにある本を読み返してみて、そのように感じてなりませんでした。
その著者は修行系の人で、そこには、"私は悟ったのですi 以前のは小悟のようなもので、本当の悟りではなかったのですが、今度のは大悟です。迷いも我欲もありません。完全に悟ったのですi"、というようなことが書かれておりました。
以前呼んだ時は、何も引っ掛かるものは感じず、割りと共感して読んでいたように思ったのですが、どうもスンナリ入って行かないものを感じてならないのでした。
私は完全に悟ったことなどないので、このことについてとやかく言う資格など無いのですが..."私は..."というのがどうも...
迷いも我欲も無くなるんですか、その私って人は? その人が悟るの?(勿論、書かれたものをそのまま受け取ってしまうのは短絡的なことで、著者はただそのような言い回しをしているだけで、ホントはもっと別のことを含ませているのかもしれませんが...主語(私)を使わないと伝わりにくいのも確かではあります)
私はどうしてもこの私が、私自らがそのような境地に達する(?)ようには、リアルに感じられないのです。ということは現実に意識がそのようには赴かないということなのですが...
それ以前には、"私が"悟りを開くことは普通に"考えられていた"のです。これは私だけでなく、大多数の人もそう考えられていたのではないですか?
今、感じられることは...どうも"古いなi"
何か前時代的なものを感じてなりません。私もそういう時代を長く生きてきたということです。
中には、"勝手に古いとか、前時代的なものにするなi"、と感じている人もおられるでしょう。そうです、これはあくまで私の主観を言っているに過ぎないのです。
人にはそれぞれ道がある...その道は現実に意識がそこに向かうことが無ければ、開かれることは無いでしょう。考えているだけでは...又いくら修行をしてもそうなるという保証はありません。
そして、私は今、私でなく、私を超えたものに意識が向けられているのですi
現実にそうなる、ということはかつては無かったのです。
予感はずっとあったのですが...頭では以前から、"私が"悟りを開くなんてことは、もしかしてズレたことなんじゃないか?"、とは思っていました。しかし、現実に開かれて来るものがありませんでした。
"思われた私からではなく、それは私を超えたものから来る"...これが"私の新時代"を告げるものに他ならないのです。
新時代に則せば、悟りが何であるにせよ、私がどう、こうでなく、ただ与えられるままに与るということがあるだけなのです。それが小さいのか、大きいのか、本当のものなのか、半端なものなのかは"与り"しれません。
だからと言って、"私は前時代を卒業して新時代に立っているのです"、なんて言うこととも違うでしょう。
私じゃない、私が変わったのでなく、私が立っている世界の方が、私の"時場"が変わったということでしょう。
あなたにあっては?...知りません。あなたの意識が向かうところに聞いてみて下さい。