毎度のことながら、ノンデュアリティの教えなどでは、あなた個人のことも、世界のことも幻想である、と平然と説かれたりします。
今のウクライナのことは、報道を通じてしか分からないけど、これが自分の身近に起きたとしたら、幻想だなどと思えるでしょうか?
思えなかったら、無理に思う必要は無い!...得心してる訳でもないのに、無理にそう思おうとすると、迷うだけですから...
これに限らず世の中(これ自体が幻想?)何が真実で、何が幻想だか、分からないことだらけです。人が何を言っていようと、自分が本当にどう感じているか、ってことが一番肝心なのではないでしょうか?
私は何が真実か幻想か、ということより、"何にリアリティを感じるか"、ということを重視しています。というよりも、それを抜きにしたらすべてが幻想になってしまうのではないかi
この場合のリアリティというのは、そのような現実世界の真実性といったものとは直接関係なく、純然たるリアリティ感覚そのもののことを言っています。
漠然と思う、信じるというものでなく、感覚されるもの...即ち現存、現臨感覚のことに他なりません。これを置いての、ことの真実性なんていうのは、どうでもいいことなのです。
思おうとか、信じようという心理作用とは別に、それに先立ち意識の動きが認められる...自ずと意識が集まってくる...そこにリアリティが感じられるのです。それはもとより意志をもってすることではありません。
信じるのでもなく、疑うのでもない(疑えないi)...受け入れざるを得ないi...これは決定的なことなのですi
これが現臨にある意識状態と言ってもいいのです。何にリアリティを感じるか?、これ以外にありませんi...多分、この世には無いでしょう。
だからといって、それ以外は幻想だ、ってことになる訳じゃなくて、砲弾が飛んできたら、ただじゃ済まなくなるような現実ってのはあるし、その対処の仕方ってのも(あったりめ~のことながら)あるでしょう。
でも、それは現実世界がどうなっても消えないものなのです。(死んでも?...それは死んでみなきゃ分かりません)
では、先の思考に先立つ意識の動きっていうのは、どうして起こるのか?
これは、おそらく誰しもが経験しているのではないでしょうか? その気のある人なら...
気が向くから意識が向く...意識が向くから気が向く...どっちかは分かりませんが、これには思考してる間がありません。
そして、そこに強く惹かされるものを感じたなら、意識がどんどんそっちに引き込まれてゆくのを感じないでしょうか?
私の場合、それが最愛なるもの、神的なものに他ならないのです。意識が自ずと、深まる、広がる...そして、そのものが臨んでくる...
意識が現実に動かなかったら、いくら高遠なる教えだろうと、信じる必要は無いのです。
本当に自分にとり、信じるべき、受け入れるべきものなら、ちゃんと意識が動いてくれるものなのですi
これは、そういう気がある、ってことです。その気がなきゃどうしようもないi
そこに愛、平安を感じなきゃ、その気も起きないし、どうしようもないi
多くの人は、こういうことを漫然と考えごとにしてしまうから気が付かないのです。気が付いてる人にはその気がある。
考えないで、感じる、意識する、気を...何だっけ?...いつもながら、肝心なことほど言葉が無いわいi
今のウクライナのことは、報道を通じてしか分からないけど、これが自分の身近に起きたとしたら、幻想だなどと思えるでしょうか?
思えなかったら、無理に思う必要は無い!...得心してる訳でもないのに、無理にそう思おうとすると、迷うだけですから...
これに限らず世の中(これ自体が幻想?)何が真実で、何が幻想だか、分からないことだらけです。人が何を言っていようと、自分が本当にどう感じているか、ってことが一番肝心なのではないでしょうか?
私は何が真実か幻想か、ということより、"何にリアリティを感じるか"、ということを重視しています。というよりも、それを抜きにしたらすべてが幻想になってしまうのではないかi
この場合のリアリティというのは、そのような現実世界の真実性といったものとは直接関係なく、純然たるリアリティ感覚そのもののことを言っています。
漠然と思う、信じるというものでなく、感覚されるもの...即ち現存、現臨感覚のことに他なりません。これを置いての、ことの真実性なんていうのは、どうでもいいことなのです。
思おうとか、信じようという心理作用とは別に、それに先立ち意識の動きが認められる...自ずと意識が集まってくる...そこにリアリティが感じられるのです。それはもとより意志をもってすることではありません。
信じるのでもなく、疑うのでもない(疑えないi)...受け入れざるを得ないi...これは決定的なことなのですi
これが現臨にある意識状態と言ってもいいのです。何にリアリティを感じるか?、これ以外にありませんi...多分、この世には無いでしょう。
だからといって、それ以外は幻想だ、ってことになる訳じゃなくて、砲弾が飛んできたら、ただじゃ済まなくなるような現実ってのはあるし、その対処の仕方ってのも(あったりめ~のことながら)あるでしょう。
でも、それは現実世界がどうなっても消えないものなのです。(死んでも?...それは死んでみなきゃ分かりません)
では、先の思考に先立つ意識の動きっていうのは、どうして起こるのか?
これは、おそらく誰しもが経験しているのではないでしょうか? その気のある人なら...
気が向くから意識が向く...意識が向くから気が向く...どっちかは分かりませんが、これには思考してる間がありません。
そして、そこに強く惹かされるものを感じたなら、意識がどんどんそっちに引き込まれてゆくのを感じないでしょうか?
私の場合、それが最愛なるもの、神的なものに他ならないのです。意識が自ずと、深まる、広がる...そして、そのものが臨んでくる...
意識が現実に動かなかったら、いくら高遠なる教えだろうと、信じる必要は無いのです。
本当に自分にとり、信じるべき、受け入れるべきものなら、ちゃんと意識が動いてくれるものなのですi
これは、そういう気がある、ってことです。その気がなきゃどうしようもないi
そこに愛、平安を感じなきゃ、その気も起きないし、どうしようもないi
多くの人は、こういうことを漫然と考えごとにしてしまうから気が付かないのです。気が付いてる人にはその気がある。
考えないで、感じる、意識する、気を...何だっけ?...いつもながら、肝心なことほど言葉が無いわいi