人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ありのままを神に

2022-03-08 09:58:20 | 求道、探究
いつも言うように、私が人に対して批判的なことを書く場合、多く私が個人的に知っている、反面教師を念頭に入れているのでして、誰彼なしに、ああいう言葉を投げかけたりはしないのです。
彼とは五井先生絡みの因縁とか、色々あるのですけど、よくもまあ、いつも分かりやすく反面教師ぶりを見せつけられるものだなあ、とヘンに感心させられたりします。
おかげで実に分かりやすく、"ああならんようにしないとi"、という例が次々示されるようで、有難いと思っている次第なのです。
ああいうこと書いていて、手のひらを返すみたいですが、つくづく感じるのは、"人間は何て中途半端な生き物なんだi"、ということです。
"全身全霊をかけて..."、なんて言うけど、人間は、なかなかそんなに真っ直ぐ、心を一つに...なんて出来ません。
元来が中途半端なんだから...本当の自分が何だか分からない...それは、人間のことが分かってないに等しいです。
心は一方はあっち向いて、別な方はこっち向いてロンパリ状態..."中途半端やなあi"(古いi)
私だって人のことをエラそうに言えたもんじゃない...分かってますよ。
違う思いが分裂してる、葛藤。...迷っているんだけど、自分でその思いをどうすることも出来ません。
だけど、迷っている、分裂している、それが何ともシンドイ、ということが分かっているとしたら...自覚していること...これが実に大きいことだと思うのです。
内省的になってる人のことを、"どやこや"言える訳がありません。それこそが人間らしいことなんじゃないか?..それに引き換え、あの厚顔無恥の徒と来たらi(主たる矛先は、これに向けられている)...
自覚出来るということは、その思いから離れられるということです。自分の力で...そうじゃないi
それだけで、自分の思いを超えたものが直感されてきやしないでしょうか?
即ち、そっちに意識を向けることが出来るのです。まして、そこに神的なものが意識に息づいているとしたら...
ここからが肝心なことです。迷っている、心が分裂しているのなら、そのまま、ありのままをそっちにぶつけてしまう、投げ入れてしまう、ということです。
そうすると、自ずと意識は、専一に、全一的になって行かざるを得なくなり、神的な現臨に合い見えることになるのです。
これは五井先生が常々言われていた、言葉や形を超えた、祈りの奥義みたいなものです。
そこを自分の力で、自分の思いで何とかしようとする...だからいつまでも迷い続け、どこにたどり着くのか分からない、無駄な努力をし続けることになるのです。
迷っている、苦しい、しかし、自分ではどうともならない...それで自分の力の限界が分からされるのではないですか?
これはウソ、誤魔化しなく、ありのままの自分に向き合うことと言ってもいいでしょう。これを置いて神、最愛のものとの出会いなどあり得ません。
出来ると思っている人間は、いつまでたっても出来ない...
出来ない人間は、自分は出来ないが、出来てしまう世界に住むことが出来る...
人間は何とも逆説的な生き物だi...
コメント
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