私は毎日寝る前、祈りとも瞑想ともつかないことをやる習慣があります。
時間にして、そう...5分とかからないと思います。
こんな程度でさえ、いや、だからかマンネリ化したりします。
習慣というものには、これがつきものとも言えそうですが...
こんなだからその他の時間は、もう仕事とか世俗のこととかばっかしで、埋め尽くされちゃってる状態でして...って、んな訳ないでしょう!
おバカなこととかヒマなこととかしてますよ、そりゃ...
だけど、ここんとこの私の日々は、その根底に常に“じんじん”と、神的なものと共にある、という感覚を覚えているのです。
これは、多分常に耳鳴りがしていることと関係があると思うのですが、なにしろ、ちょっと意識を神的なものに向けたらそんなことになってしまう訳でして...
これはもう、ほとんど自分が何かを思ったり、やったりするという感じではないのです。
私が思い、やる何かでそうなるんじゃない...実に神的なものに依るのです!
だから何分やろうとか、そういう状態になる手順とかは一切関係ありません。
と言っても、全く勝手にそうなる、って訳じゃなく意識するということはあるのですが...
こうした無為的な事態にあっては、マンネリだとかスランプのようなものなどあろうはずがありますせん!
神的なものが現臨する、それが通られるということはそういうことなのです!
起こること自体は毎回同じかもしれませんが、それを受ける感じはいつも新しい!...いつもそこには、愛、平安、リアリティがあるのは言うまでもありません。
日常で表向きどんな無意味な、バカなことをしていても、奥の方で祈らされている、という感じかします。
これが本当にラク~なことなのです!...自分でやってることじゃないってことが!...
別にそういうことを思わなくても、日々感じていることは、神的なものと段々一つになってゆくようなのです。これはしかし、私の思いとは別にあることなので、それにゆだねるより他ありません。
私は実は、昔から毎回一定の時間、ルーティンのように祈りや瞑想に当てたりするのが苦手だったのですが、どうも“やらなければ!”という余計な力みとか、先の意識とは別のヘンな自意識みたいなのが入ったりして...
又、習慣化、マンネリ化することが嫌だったのかもしれません。いやいや、ただズボラ、イイカゲンだっただけなのでしょう?
とはいえ、そうした形で入っても、いつの間にか無為的になって時間が経つのを忘れてしまうこともままあります。
祈りでも瞑想でも、本質的には、祈らされている、瞑想させられている、ということなのでしょう。
時間にして、そう...5分とかからないと思います。
こんな程度でさえ、いや、だからかマンネリ化したりします。
習慣というものには、これがつきものとも言えそうですが...
こんなだからその他の時間は、もう仕事とか世俗のこととかばっかしで、埋め尽くされちゃってる状態でして...って、んな訳ないでしょう!
おバカなこととかヒマなこととかしてますよ、そりゃ...
だけど、ここんとこの私の日々は、その根底に常に“じんじん”と、神的なものと共にある、という感覚を覚えているのです。
これは、多分常に耳鳴りがしていることと関係があると思うのですが、なにしろ、ちょっと意識を神的なものに向けたらそんなことになってしまう訳でして...
これはもう、ほとんど自分が何かを思ったり、やったりするという感じではないのです。
私が思い、やる何かでそうなるんじゃない...実に神的なものに依るのです!
だから何分やろうとか、そういう状態になる手順とかは一切関係ありません。
と言っても、全く勝手にそうなる、って訳じゃなく意識するということはあるのですが...
こうした無為的な事態にあっては、マンネリだとかスランプのようなものなどあろうはずがありますせん!
神的なものが現臨する、それが通られるということはそういうことなのです!
起こること自体は毎回同じかもしれませんが、それを受ける感じはいつも新しい!...いつもそこには、愛、平安、リアリティがあるのは言うまでもありません。
日常で表向きどんな無意味な、バカなことをしていても、奥の方で祈らされている、という感じかします。
これが本当にラク~なことなのです!...自分でやってることじゃないってことが!...
別にそういうことを思わなくても、日々感じていることは、神的なものと段々一つになってゆくようなのです。これはしかし、私の思いとは別にあることなので、それにゆだねるより他ありません。
私は実は、昔から毎回一定の時間、ルーティンのように祈りや瞑想に当てたりするのが苦手だったのですが、どうも“やらなければ!”という余計な力みとか、先の意識とは別のヘンな自意識みたいなのが入ったりして...
又、習慣化、マンネリ化することが嫌だったのかもしれません。いやいや、ただズボラ、イイカゲンだっただけなのでしょう?
とはいえ、そうした形で入っても、いつの間にか無為的になって時間が経つのを忘れてしまうこともままあります。
祈りでも瞑想でも、本質的には、祈らされている、瞑想させられている、ということなのでしょう。