人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

祈りから開かれる

2022-03-20 09:55:10 | 祈りと瞑想
私は、精神的な道において特別な方法に依拠してこなかったけれど、強いて祈りというものに親しんで来た、ということは何度も述べています。
具体的に言えば...求道の最初の頃身についていたのは、神、守護霊(言うまでもなく五井先生の影響です)への感謝と”み心のままに導きたまえ“、といったニュアンスが込められた祈りなのでした。。
勿論その頃は、思考とそれを超えた領域の区別など分かるはずもなく、ただ“思うがままに”祈っていた訳です。
しかしながら、そうやって祈っているうちに段々分かって来たことがありました。
祈っている時の意識状態というものは、ただ思考している時のそれとは微妙に違うものだ、ということが...
これがきわめて重要なことで、祈るということは、もうすでに自分の思いを超えたものに意識が向けられている、ということなのです。
それは、祈りという形を取らなくても、祈り心(言い変えれば、敬虔な心)とも言うべき意識状態にある時、そうなっていると言えるでしょう。
そして、この思いとそれを超えたものとの明らかな違いは、神的なものの現臨をはっきり感じた時に分からされたのは言うまでもないことですが、その萌芽のようなものは既に感じられていたのでした。
この祈りを何かの行といった感覚でする場合、注意しなければならないことは、自分が行じている、自分の祈りで...という思いに囚われないことです。
祈りの文句は、形はこうでなければならない...数多く称えなければ...何時間しなければならない...
これは自分の思念、力に頼っているのであり、神的なものに意識が向けられ、開かれてゆくことがありません。
だから...私は特別な方法に馴染むことは無かった、と言っているのです!((特別な方法を否定している訳じゃなくて、ここでは思いに囚われないことを言っているのです)
そうなのです!...あの御方無しでは何一つ開かれることが無かったのです!
最初は、漠然と、”じゃあ、祈ってみようかなあ...”なんてところから始まったのかもしれません。
しかし、その”祈ってみよう”といった一瞬の思いに、あの御方の本願がかけられていたのか、というようなことを感じずにおれません!...
これを思うと、もう随喜の涙が...
コメント
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