"恩寵を受けるには、それ相応の努力をしなければならないi"、という旨のことを言っている人がいます。
何かをやらなければ、努力をしなければ求めているものは得られない、という思いは、多くの人に刷り込まれているようにも根強くあるのでしょう。
だけど、そうやって恩寵が受けられるという保証などどこにもありませんよi
努力の尽き果てた末にそれに与る、という例もあるでしょうが、そういうことに関係無しに受ける人は受けているのです。努力と言うのなら、一知半解で決めつけたこと言ってないで、そういう例が示されている本などを探して読んでみたらいいんです。
かと言って、では何もしなくてもいい、ってことにはならないですよ。
先の人などは、思うだけだったら何にもならない、行動しなくてはi...という"思い"から、そういう言葉が発せられるのでしょうが...もっと肝心なことがあるでしょう?
人間は何かを思い、行うだけで生きてはいないi...もっと根本的には意識しているのです。意識的状態ってのがある。
何度も言うように、精神的な道においては、このことが絶大な意味を持っているのですi
このことが分からない人は、思考と意識の区別が分からないのです。だからいつまでも観念の世界に閉じ籠って、固定観念に囚われたり、色々な教えにハマったり、洗脳されたりしているのです。それで恩寵を受ける道など開かれる訳が無いi
意識的にならなければ、何も開かれない、と言っても過言ではありません。意識の次元で恩寵や神的な現臨に与れるのですから...それが思いを超える、ということなのですが...
悟り系のスピなどでは、"何もしなくてもいいのです"、などと説かれたりしますが、言い回しには注意が必要です。
意識的になる、そうあることは何もする必要がありません。それについて思ったり、信じたりする必要もありません。
だけど、そこでは意識的な感じにはなっているのです。
思い、意志しなくても、ひとりでに意識が動き、導いてくれる...何もしなくてもいいが、何も無くはない...
何かをしなければ、行動しなければi...という思いに一方で駆り立てられていて、そうなろうとしたって、思いが分裂するだけで何にもなりませんi
要するに気持ちが中途半端なんですi...五井先生も言っていました「中途半端は一番ダメですi」
行動したければ思う存分やったらいいでしょうi(私は勿論そのこと自体を否定したりしませんが、そういうのはスポーツ選手向きなのは確かです)
何故、意識的なものが開かれないのか?...その気が無いからではありませんか?
自分の力で何かをしなければ、という思いが強すぎる人は、本当はその気が無い、意識が向かわないのでしょう。
まあ、だから何かをやり続けているんでしょうけど...そういう人が恩寵とか、それが導く全託の道などのことに、軽々しく言及し、首を突っ込もうとすることが間違っているのです。
大体、何十年も同じことを続けていたら、分からなきゃおかしいi
その気があれば、最初から惹かれてやまないものに意識が向けられていて、何かをしなければ、という方には意識が動かないでしょう。
自分は一体何を求めているのか、求めさせられているのか?...これが示されることは何事によらず肝心なことです。
そういうことに向かうこと自体が意識的になるということでもあります。
それは意識の動きが教えてくれるでしょう。
何かをやらなければ、努力をしなければ求めているものは得られない、という思いは、多くの人に刷り込まれているようにも根強くあるのでしょう。
だけど、そうやって恩寵が受けられるという保証などどこにもありませんよi
努力の尽き果てた末にそれに与る、という例もあるでしょうが、そういうことに関係無しに受ける人は受けているのです。努力と言うのなら、一知半解で決めつけたこと言ってないで、そういう例が示されている本などを探して読んでみたらいいんです。
かと言って、では何もしなくてもいい、ってことにはならないですよ。
先の人などは、思うだけだったら何にもならない、行動しなくてはi...という"思い"から、そういう言葉が発せられるのでしょうが...もっと肝心なことがあるでしょう?
人間は何かを思い、行うだけで生きてはいないi...もっと根本的には意識しているのです。意識的状態ってのがある。
何度も言うように、精神的な道においては、このことが絶大な意味を持っているのですi
このことが分からない人は、思考と意識の区別が分からないのです。だからいつまでも観念の世界に閉じ籠って、固定観念に囚われたり、色々な教えにハマったり、洗脳されたりしているのです。それで恩寵を受ける道など開かれる訳が無いi
意識的にならなければ、何も開かれない、と言っても過言ではありません。意識の次元で恩寵や神的な現臨に与れるのですから...それが思いを超える、ということなのですが...
悟り系のスピなどでは、"何もしなくてもいいのです"、などと説かれたりしますが、言い回しには注意が必要です。
意識的になる、そうあることは何もする必要がありません。それについて思ったり、信じたりする必要もありません。
だけど、そこでは意識的な感じにはなっているのです。
思い、意志しなくても、ひとりでに意識が動き、導いてくれる...何もしなくてもいいが、何も無くはない...
何かをしなければ、行動しなければi...という思いに一方で駆り立てられていて、そうなろうとしたって、思いが分裂するだけで何にもなりませんi
要するに気持ちが中途半端なんですi...五井先生も言っていました「中途半端は一番ダメですi」
行動したければ思う存分やったらいいでしょうi(私は勿論そのこと自体を否定したりしませんが、そういうのはスポーツ選手向きなのは確かです)
何故、意識的なものが開かれないのか?...その気が無いからではありませんか?
自分の力で何かをしなければ、という思いが強すぎる人は、本当はその気が無い、意識が向かわないのでしょう。
まあ、だから何かをやり続けているんでしょうけど...そういう人が恩寵とか、それが導く全託の道などのことに、軽々しく言及し、首を突っ込もうとすることが間違っているのです。
大体、何十年も同じことを続けていたら、分からなきゃおかしいi
その気があれば、最初から惹かれてやまないものに意識が向けられていて、何かをしなければ、という方には意識が動かないでしょう。
自分は一体何を求めているのか、求めさせられているのか?...これが示されることは何事によらず肝心なことです。
そういうことに向かうこと自体が意識的になるということでもあります。
それは意識の動きが教えてくれるでしょう。