人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

至福以外の何ものも無いi

2022-03-07 10:18:55 | 覚醒
前回も書いたように、宗教の狂信者とかある観念に囚われている人は、中々精神的目覚めに開かれることがありません。
そっちに意識が向いていない、その気が無いのですから...だからいつまでも囚われ続けているのです。
何かを思い、信じ、やろうとする自分が居て、その信仰なり、修行を一段一段重ねて行った先に覚醒といったものがある、と信じて何かに励み続けるのでしょうが...その先にはそういったそれまでの苦労、努力はご破算になる運命が待ち受けているかもしれない、ということなど思い及んでいるのでしょうか?
いや、どっかでそのように感じているかもしれません。覚醒にはそういうものが付きまとっているということが...
だからその気が無いのです。こういう人が向いているのは別のところにあるのでしょう。
"今よりも、人よりも高い、進んだ境地に達したいi"...神の道どころか、別の魔道が開かれるのは目に見えているではないかi
こういう人は、覚醒の夢を見続けているようなもんじゃないですか? だから、さっさと目を覚ますべきなのです。
時に、こういう人から"神に至るには全託することだ"、などという、場違いな言葉も発せられるようです。全託するというのなら、それまでの努力などご破算になったとしても本望ではないか?...それが本懐ってもんじゃないのかi
きっとその努力は報われるでしょうが...それに引き換え、中途半端などっちつかずの努力などi...
思い、やろうとする自分がガンバッているか、神的なものがそこに顕現しているかどっちかしか無いのですi
これはイエスでもブッダ、老子、五井先生でも等しく伝えていることです。
神が現前している時、こちらの思いも、為そうとする力も無化されているのです。この状態においては...そう、すべてをゆだねるしかありません!
ただ、それで本当に思いや力や欲望が無くなる訳じゃなくて、覚醒の、神が現存、現臨するステージではそうなる、ってことです。
又、それまで築いて来たものがすべて無くなる、って訳でもありません。そうなるかどうかは本人次第でしょう。
はっきり言えることは、それまで思い、為して来た人生に、ある一応のピリオドが、大きな節目がもたらされるということです。
有り体に言えば、その時から自分が思っていた人生では無くなるということです。自分の思い、力というものの限界がアリアリと示される...これが大きいことなんです。
こういう風に書くと、その無の道というのは、よほど暗闇に包まれているようで、つらく、苦しいもののように感じられるかもしれません。(だからその気が無いi)
又、そういう道を通らないと、至福には導かれないと言っている例も結構あります。これは、しかし捉えようの問題でしょう。
もっと大きなスパンで、人生のつらく、苦しい経験をしたもので無ければ、そういうものに与れないのかもしれません。
そういう思いをイヤというほどしている...どんなに努力しても報われることが無い...思おう、信じようとしてもそうならない現実...(こういうことを全く感じない人間て居るか?)
すでに言い知れぬ無力感に押しつぶされている...おそらく、そういう思いをして来たという人なら..."向いて"しまうのではないでしょうか?
思いを超える、ということがどういうことなのか?、それに与る前から知らされているのではないでしょうか?
そして、思いのヴェールの向こうにあるもの...
(読み手に先入観を与えてしまうといけないので、これはあくまで私の主観と思って下さい)
神の現臨にあって、思考、能力の機能を失っている間、文字通り何もかも無いという感じです。
苦しみなんてのもありません。そうなるまでは確かに頭痛、発熱などで苦しかったのですが、それを忘れてしまうに余りあるものに出くわしたのです。
それは言うまでもなく、現前しているものから来るものです。
"至福以外の何ものも無いi"...


コメント
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