人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

人生の教師と見えざる導師

2015-02-10 20:21:21 | 人生の教師
当ブログではおなじみの五井先生や小池先生、玉城先生など、いずれも私には懐かしい人生の教師たちです。(忘れる事の出来ない人でまだ紹介してない人も居ます)この方たちとの出会いは鮮烈に覚えていますし、当初はあまり自覚されてなかったのですが、その後の歩みを重ねるにつれて、いよいよその得難い出会いの重みを感じて、感謝は尽きないものが有ります。
この方たちは、私にとって”師匠”と呼んでも良さそうなものなのですが、そう呼ぶには一寸躊躇するところがあるのです。
聞きようによっては、生意気に取られるかも知れませんが…
その理由は第一、硬いこと言うようですけど、私は正式に弟子入りなどしたわけではありません。
又、弟子と言うにはあまりにもドライだったというか、筋目と言うのが無さすぎたと思うのです。
ある一人の師について一筋に歩んでこられた方からしたら、何でこんなに何人も先生が存在するのか、不思議に又、さぞイイカゲンに思われることでしょう。
これにはまず、よく反面教師のように語られることの多い、M教団で経験してきたことが大きく影響しているのです。
一時、五井先生に対して向けられたことはありましたが、ある個人、その教えを絶対視するとか、権威を向けてしまうことが出来なくなってしまった、ということです。
そしてその裏返しのように、その教団を辞めた直後私の意識に次のような声なき声の促しが刻まれました。
「お前の前には、お前が辿るべきいくつもの道を用意している…お前の魂の望むままに自由に味わうが良い…」
そして、その促しが後押しをしてくれるかのように、幾多の奇縁と結ばれていったのです。
朝、奇しき出会いに感激したかと思うと、夕べはまた別の出会いの感激に酔いしれる…「自分の魂にウソはつかない」といった調子です。
このようなプロセスはよく宗教、精神遍歴として語られることが多いのでしょうが、私の場合取っ代え、引っ換え道を代えて行った訳ではありません。
一度鮮烈な出会いを持った縁とは、私の内面でずっと続いているのです。
ただ、これら教師を巡る特定の精神的グループとの関わりにおいては、しばしば私の内面と衝突しました!
多くの場合、上述した相対的権威の押し付けなどが私に向けられるや否や、私の逆鱗に触れたものです!
別の観点で言えば、私の人間関係についての忍耐の無さ、人情味の無さといったところでしょうか?…
教師であっても導師、マスターと呼ばない別の理由は私なりの定義に有ります。
それは、導師とは”明け渡し”の対手だということです。
小池先生がよく言っていた「人生における決定的な砕けの瞬間」自分が無条件降伏した、そこにいる存在のことです。
「もう、この方となら心中しても本望だ!」と思える存在のことです。
私の場合、それが声なき声、圧倒的な現臨感で示される”見えざる導師”です。仏教では法身仏というのでしょうか?
こんなこと聞くと、奇矯に感じる人も居るかも知れませんが、誰が何と言おうと”人生の裏側”ではこういう霊縁の方が一般的だと思います。(妙チキリンな表現ですが)
これは、相対を超えた領域にあるということで、肉体の形をとる必要が無くなるということです。
そして、遅かれ早かれ見える導師と縁の有る無しに関わらず、みんなそれぞれの霊縁で結ばれるものと思います。
考えてみれば、私と縁のある教師たちは、呼び方は守護神であったり、霊なるキリストであったりしますが、各々見えざる導師とつながりを持った方ばかりです。
そして今日、相次いで意識の目覚めに預かっている方もおそらくは…雲さんばかりではないはず…
今の時代は、特定の教師という存在は必要でなくなってきているのでしょう。
物事がダイレクトに流れてきている感じです。
人が人に教えたり、教わったりというのは、相対的にならざるを得ません。
でも、私の内には教師たちの懐かしさというのも消し去ることが出来ません。
少なくとも、私の幾多の気付きには彼らが土台となっています。
その目先は相対を超えたものに向けられていました。
見えるものは、見えないものの証なのです…。






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