人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

究極の教え皆伝

2019-02-22 12:11:01 | 求道、探究
私はブログを始めてかれこれ5年になろうとしています。
スピ、宗教、哲学などの関連で随分様々なことを書いてきました。
しかし...今日ここで伝えること以外のものは、すべて忘れてしまって構いませんi
何しろ、これ以上のものは無い、究極の教えをここに降ろそうとしているのですから...
これは我が究極のマスター直伝のもので、空前絶後のものであるのは言うまでもありません。
ああ、もう余計な前フリはよそう...
本チャンは今ここに開示するのですi いや、もう冗談でなくホントに"ジンジン"来た、来た~
気を失わないうちにサッサと書かねば...
それは...
我々がこれまで幸福、愛、平安、真理を求めて幾多もの教えを学び、信じ、行じてきたけれど、本当にそれらをもたらすのは、その教え、信仰、行法自体にある訳じゃないということです。
せいぜい、そういうものに触れて"何だかラクになった、救われた気がしてきた"、"何だか分からんが分かったつもりになった"、という程度ではないでしょうか? それを何回も飽きずに繰り返しているだけ...
それでウハ、ウハ喜んでいるのは商魂だくましいスピ商人、宗教屋だけ...
ホントにあらゆる教え、信仰、修行というのは、前フリだけで終わり、それを繰り返しているだけではないでしょうか?
"今日もいい教えを有り難うございます。次回も宜しく..."なんて、教え、信仰、修行などは何度も反復されるばかりの出がらしみたいなものじゃありませんか?
そうです。愛、真理をもたらすのは、神的なもの、そのものなのです。
人間なり、言葉なりが媒体となることはあっても、それは言うまでもなく、そのものあってのものなのです。
そして、そのものにある時、求めていた愛、平安、真理というものはそのもののうちにあるということが知られるでしょう。
すると..."んなもん、分かってらあ"ってことになりますか?
それはまさに...いつもいつも教えにしてしまっている人の心根を言い表しているだけです。
前フリだけで分かったつもり、満足しているだけで、本チャンに与ろうという気の無い人間の言い分に過ぎません。
リアルに神的なものが臨んだら、"いつもの..."ということで済むハズが無いのですi 繰り返しが効かないのです。
何回かその訪れはあるかもしれませんが、その一回、一回は常に新しい一回きりのものです。
出がらし、借り(仮)もので満足しちゃう人には与りしれるものじゃありません。
これは何よりも他人事じゃないのです。いつもツベコベ言いたがる自分がドッカと居座り、評論家気取りの、傍観ばかりしてる人間、これを望まない人間には決して開かれないのです。
こういうことが何かの教えになってしまったなら、あなたも私も世界も永久に救われないでしょう。
だから...私はエラそうに教えを垂れるつもりもないし、このブログにそういうものを感じているようでしたら、サッサと忘れて下さい。
究極の教えはあなたのマスターからもたらされる...

って、いつも書いてる気もするが...いつものことにしてしまうか、一回きりのものになるかは、ここからが肝心...
ああ、もうジンジン...今日はオシマイi


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