「我々が認識を霊的に理解するならば、認識とは、”それによって、又、そこにおいて、あるものを現実にもたらすはたらき”、ということが出来よう」
(ベルジャーエフ「人間の運命」/白水社刊)
昨日、ベルジャーエフの本を読み返していたら、前回の記事の内容のことを一言で言い表している、この文章に接して驚いてしまいました。
もっとも、ベルジャーエフならどの本を紐解いても、そういうことが書かれている、くらいのことは私の頭にもあるのですが、これは、”じっつに前記のことを代弁しているではないか!”、と感じ入った次第なのです。
この文章は、哲学的認識に関して述べられたものなのですが、我々はこの認識について、あまりにも皮相的な理解に留まっていると言えないでしょうか?
自分についての、他者についての、世界、歴史、あるいは神...それらを客観的対象にして、何かが分かったような気になったとしても、それは知的概念、抽象論として認識しているだけであって...と、このように文章が続けてられること自体が、正に皮相的な理解たる所以なのです。
一体そこで何を認識したと言えるのか!...主体となる私と対象が分離したままにあって...一番の欺瞞は、自己を客観的にして考える、所謂自己認識と言えるでしょう!
考えているだけのこと、そこから導き出せる如何なる見解も認識には到達出来ないのです。...これらの通弊を招いたものは、多く所謂”哲学的認識”、とされるものとは言えまいか?!
これに対してベルジャーエフの認識論は、「現実の存在は認識を通して照明を受ける...」というところから始まり、「私の存在の意味は私が私自身のうちに、則ち霊のうちに完全に入りこみ、客体が私にとって、全く存在しなくなった時初めて解明される」(上掲書)という具合に展開するのですが...(これが認識論なのか?、と驚嘆する思いと、先のこんなものが認識論なのか?という思いが私の中で裏表になっています)そこでは、自己と霊なるものとの交流が強調されているのです。
彼の多くの著書で、このような認識論をその導入部として、初めの方に位置づけているのですが...この認識が本当になされたのなら、あなたの人生はきっと一変するだろうと思いますよ!
しかし、それをどう読むかはあなたの自由です。
数多の所謂哲学的認識論として読むことも可能です。一風過激で変わった認識論の一つとして...
ただ書かれた言葉をなぞるだけで、見えない手によって、聖霊のバプテスマへと導く、秘儀参入としての按手礼みたいなものが行われる訳では無いですからね...
だが、あなたが本心から、本当の自分、自己を超えた霊なるものを望むのなら話は別です。
言葉、抽象概念を超えて、客観的知識ならぬ、あなた自身の内なるものを揺れ動かす、霊的媒体とならないとは限らないのです。少なくとも私は、そういう読書体験をしたことがあるのです。
本来の哲学的認識とは、自己実存を明らかにする、超越的な現存に与ることであったのです。
これは、正に秘儀参入の道と言っても過言ではありません。
ベルジャーエフは、それを哲学的表現の中に秘儀として隠していたようです。
何人が、その門を突き破って、人生の裏側へと足を踏み入れたかは知る由もありませんが!...
(ベルジャーエフ「人間の運命」/白水社刊)
昨日、ベルジャーエフの本を読み返していたら、前回の記事の内容のことを一言で言い表している、この文章に接して驚いてしまいました。
もっとも、ベルジャーエフならどの本を紐解いても、そういうことが書かれている、くらいのことは私の頭にもあるのですが、これは、”じっつに前記のことを代弁しているではないか!”、と感じ入った次第なのです。
この文章は、哲学的認識に関して述べられたものなのですが、我々はこの認識について、あまりにも皮相的な理解に留まっていると言えないでしょうか?
自分についての、他者についての、世界、歴史、あるいは神...それらを客観的対象にして、何かが分かったような気になったとしても、それは知的概念、抽象論として認識しているだけであって...と、このように文章が続けてられること自体が、正に皮相的な理解たる所以なのです。
一体そこで何を認識したと言えるのか!...主体となる私と対象が分離したままにあって...一番の欺瞞は、自己を客観的にして考える、所謂自己認識と言えるでしょう!
考えているだけのこと、そこから導き出せる如何なる見解も認識には到達出来ないのです。...これらの通弊を招いたものは、多く所謂”哲学的認識”、とされるものとは言えまいか?!
これに対してベルジャーエフの認識論は、「現実の存在は認識を通して照明を受ける...」というところから始まり、「私の存在の意味は私が私自身のうちに、則ち霊のうちに完全に入りこみ、客体が私にとって、全く存在しなくなった時初めて解明される」(上掲書)という具合に展開するのですが...(これが認識論なのか?、と驚嘆する思いと、先のこんなものが認識論なのか?という思いが私の中で裏表になっています)そこでは、自己と霊なるものとの交流が強調されているのです。
彼の多くの著書で、このような認識論をその導入部として、初めの方に位置づけているのですが...この認識が本当になされたのなら、あなたの人生はきっと一変するだろうと思いますよ!
しかし、それをどう読むかはあなたの自由です。
数多の所謂哲学的認識論として読むことも可能です。一風過激で変わった認識論の一つとして...
ただ書かれた言葉をなぞるだけで、見えない手によって、聖霊のバプテスマへと導く、秘儀参入としての按手礼みたいなものが行われる訳では無いですからね...
だが、あなたが本心から、本当の自分、自己を超えた霊なるものを望むのなら話は別です。
言葉、抽象概念を超えて、客観的知識ならぬ、あなた自身の内なるものを揺れ動かす、霊的媒体とならないとは限らないのです。少なくとも私は、そういう読書体験をしたことがあるのです。
本来の哲学的認識とは、自己実存を明らかにする、超越的な現存に与ることであったのです。
これは、正に秘儀参入の道と言っても過言ではありません。
ベルジャーエフは、それを哲学的表現の中に秘儀として隠していたようです。
何人が、その門を突き破って、人生の裏側へと足を踏み入れたかは知る由もありませんが!...
共にあるそんな気がいたしました。
私の独自のシステマチックな理論とか方法論などが提示されないとか?
私の場合、そういう色というものをあまり出さない方に意識されるようです。そういうものに囚われ、自由性、普遍性を損ない、そもそも現臨のハタラキが通る道をふさぐことにつながるのでは、という思いにかられるようです。
というか、単純に意識が向かうことを書いているのですが...
橋渡し的なことに全然触れてない訳ではなく、それは丹念に読まれたらお分かりかと思います。
独りよがりのようですが、分かりづらい、捉えづらい感じを持たれるであろうことは、十分承知しているつもりです。
なるべく、ある部分ばかりを切り取って理解しようとしないで、多義的に、自由な感性でお付き合いされるように希望します。
私はシステムという言葉はとにかく、感情判断という現われを、あなた様の言われる現臨とヒト存在のはざまをつなぐものだと思っています。
いわれなくはたらくものを、ヒトが感じ取る。その感じが感情のもとにあって、命をつないでいると考えるのです。認識はそこから生まれていると見るのです。
現臨を感覚する。身体的には、快・不快のシーソーそのものが命の実感でありますね。やがて知性が芽生えると、その身体的実感が知性とつながって、知的快・不快を生み出す。内照して自分に生まれている感覚を見たとき、ヒトは現臨のように無垢のままそれを見続けることはできませんね。それに何らかの色を付けてしまうのがヒトなのです。
ヒトの側から見ればそれは快・不快をベースにした感情判断という言葉になりますし、現臨の視点からそれはただあるものという表現しかありません。言葉を使う以上、可能な限り現臨に肉薄する翻訳に挑戦するというのが、ヒトとして生まれたものの役目と思っているのです。同意を得ようと書いているのではありません。ただ本質を極めようとするとき、様々な方向からの視点を互いの理解につなげられないかという私の思いなのです。これ以上踏み込むつもりはありませんので、長文お許しください。
いわれなくそうはたらくのは、主体と客体の関係が「よい、わるい、わからない、ふつう」という関係の主体側の色にほかならない。そう思ったりします。