「“歩いたのは自分です。それは歩かしめるような力が加わったからなんです“、という時に、それが聖霊経験です」(手島郁郎)
手島先生の「ロマ書講話下巻」(手島郁郎文庫)を読んでいたら、言語形態の一つで中動態というのが出て来ました。
能動態を表す自動詞でも他動詞でもない、そういうものがこのロマ書の原語のギリシア語にあるのだそうです。
私はこれまでどれだけ、例えば“意識を向ける、いや向けられる...“などとまどろっこしい言い方をしてきたことか!
このブログの基調部分は、ほとんど中動態で表されるようなことと言っても過言ではありません。(本当は微妙な、含みをもった表現を伝え得る日本語こそ、この言語形態が生きてくるように思えるのですが...)
よく考えてみたら、自分だけで、又自分以外のものだけで、人間の在り様は成り立たないことは自明に分かることではありませんか?
これは、人間存在というものからして、それを超えたもの無しには成り立たないことに照応しているということでしょう。
一つ言えることは、これまで我々の表層的意識は、能動的な方に傾き過ぎているということです。言い換えれば、その根底にある、我々をして在らしめる、為さしめる部分に意識が向けられてこなかったのです。
つまり、人間の在り様の根本は、意識の在り様そのままなのです。
考えるか、行動するしか無いというのは、根本的におかしいですよ!
幸福を得ようと考えて、何かの行動に駆り立てられる...それで幸福を得られるかどうかは分からないのに!...
意識的になっているだけで幸福に与ってしまったらどうするのか?...この上、何をセイって言うのか?
え?...ちょっと待てよ!、駆り立てられるのか?...何に?
神か?...いいや、“行動せよ!、為さねば成らぬ!“、と命令する別の神だろう?...
このように意識の在り様は、中動態で言い表すのに適しているはずなのですが...近代ヨーロッパの言語形態からは失われてしまったのでした。
だけど、現代の日本語には、中動態という言語形態は無いけれど、自力でも、他力でもないものを言い表せるものはあるでしょう。
今は...
“幸福です!...“
手島先生の「ロマ書講話下巻」(手島郁郎文庫)を読んでいたら、言語形態の一つで中動態というのが出て来ました。
能動態を表す自動詞でも他動詞でもない、そういうものがこのロマ書の原語のギリシア語にあるのだそうです。
私はこれまでどれだけ、例えば“意識を向ける、いや向けられる...“などとまどろっこしい言い方をしてきたことか!
このブログの基調部分は、ほとんど中動態で表されるようなことと言っても過言ではありません。(本当は微妙な、含みをもった表現を伝え得る日本語こそ、この言語形態が生きてくるように思えるのですが...)
よく考えてみたら、自分だけで、又自分以外のものだけで、人間の在り様は成り立たないことは自明に分かることではありませんか?
これは、人間存在というものからして、それを超えたもの無しには成り立たないことに照応しているということでしょう。
一つ言えることは、これまで我々の表層的意識は、能動的な方に傾き過ぎているということです。言い換えれば、その根底にある、我々をして在らしめる、為さしめる部分に意識が向けられてこなかったのです。
つまり、人間の在り様の根本は、意識の在り様そのままなのです。
考えるか、行動するしか無いというのは、根本的におかしいですよ!
幸福を得ようと考えて、何かの行動に駆り立てられる...それで幸福を得られるかどうかは分からないのに!...
意識的になっているだけで幸福に与ってしまったらどうするのか?...この上、何をセイって言うのか?
え?...ちょっと待てよ!、駆り立てられるのか?...何に?
神か?...いいや、“行動せよ!、為さねば成らぬ!“、と命令する別の神だろう?...
このように意識の在り様は、中動態で言い表すのに適しているはずなのですが...近代ヨーロッパの言語形態からは失われてしまったのでした。
だけど、現代の日本語には、中動態という言語形態は無いけれど、自力でも、他力でもないものを言い表せるものはあるでしょう。
今は...
“幸福です!...“
ご利益というか奇跡信仰を否定するような言説をしていたかと思うと、それが評判になって集会が大きくなったのは事実でしょう。又自力行も否定していながら断食をさせていたり...
実業家で成功した経験から、グループ拡大の才にも長けていたのでしょう。
後年、幕屋を大きくし過ぎたことを後悔していたとも聞いています。
手嶋郁郎さんとは、私は、ひどい、親父であると、考えます。
かれは、無一文で、神の奇跡を信じ、施しを受けて、全国を周る事をされた、ような感覚が、ありますが、彼は、神を題材にされて、無茶苦茶な、奇跡を、望まれた要素が、あると考えます。
彼の、無教会は、どうなったのか、知れませんが、一重に、悟られざる。
何故ならば、神を信じても人は幸せになれない。更に地獄に陥る原因となるかもと。
人は、天知る地知る吾が知る、そして、人が知る。四知あり。
神のみが、知っていればと、思う事は、神は知りたくも無く、四知の調和無くして、道は続くかもですが、広がらず。なんて、思考が、このブログを観て、浮かんで来ました。すみません。