人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

僕の雲

2016-08-18 13:15:01 | 独語
あるいは、”人生も世界も幻想、全体しかない…”
あるいは、”神の独り子に依らなければ、誰も救われることは出来ない…”
あるいは、”地球も人類も生まれ変わることになっている…”

巷には、何でこうも決まったような言葉で溢れかえっているのだろう
うっかり、飛びついたら、捉えられちまいそうだ…ハマるぞ~…
これらの言い出しっぺは、そのことに確信を得ているのだろうか?
又聞きしているほとんどの者は、確信したつもりになるだけ…
どうして、そんなにゴールを見据えようとするのだろう…
見据えたものは、思い描いた通りのものなのか?
借り物に一体ゴールなどあるのだろうか?
言葉に乗せられることにゃ、ロクなことなどありゃあしない!
契約書だの借用書だの、何処にもない信用が…ほら、スルリとカミに化けやがった!
”ああなんですよ~、こうなんですよ~、ああしたら、こうしたらいいんですよ~”…って…
うるせーな!…ほっといてくれ!
”ヘイ、ユー!僕の雲から降りてくれ! Get Off Of My Cloud!”

雷鳴が聞こえる…突風が吹いてきた…
あの雲が立ち込めてきた…
僕はあの嵐の真っただ中で、誰のものでも無い真実を聞きたいんだ!
ああなっているだの、こうなっているだのは、もう沢山!
あの稲妻の一撃に、ウロコの一つや二つは落ちるだろう
暴風雨が、頭の中のあらゆるゴモクを洗い流してくれるだろう
目の前は真っ暗…理想も幻想も高次元も悟りも天国も地獄も…ありゃあ、しないよ!
何を信じる、かにを信じる、コレやアレのメソッドにトライ…
信じるもの、出来るものはみんな消え失せた!
これは一体、何の幻影なのか!…夢を見ているのか!
それとも…
永遠に覚める事の出来ない夢なのか!
否定も疑いも無い
そうだ、こんなものには出くわしたことが無い
ここには既得のものは何も無い
この雲には既得権を放棄しなきゃ出くわせない
誰のものでも無い僕…
僕の雲…




















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現代に生きる五井先生

2016-08-17 14:50:19 | 人生の教師
真理というものは、千古の昔から変わらないもの、時代の変遷とともに変わるものとがあります。
どんな聖者といえど、時代の制約というものは受けるものです。
白光の五井昌久先生にもそうした時代相というものを感じる面、古さを感じない面ともども在るように思います。
私が(白光の)とわざわざ付しているのも、そういう事を言い表しているのです。
例えば、五井先生は相対的な一宗教の教祖だったのか…それとも…
こういう事というのは、ひとえに後代の道の縁の者たちの受容、理解の在り方次第といえると思います。
私が個人的に知っている五井先生の信奉者というのは、言っては何ですけど、ずーっと旧態依然の在り方のままだし、それどころか全く五井先生とは縁も所縁も無さそうな、陰謀論とか様々な現実と遊離したオカルト的言説にカブれていて、ひたすら脱線路線を歩んでいる始末…それでいて、五井先生の道を一筋に歩んでいるつもりのようで、私には一体どこに導かれていくのかテンデに分かりません。
それは全くもって本人の自由なので、私がとやかく言う義理も無いのですが、時折余計な事言うのは、ハミ出しながらも五井先生に恩義を感じている者の一人として、先生の存在をサゲてばかりいるような言辞をしているのに我慢ならないものを感じているからです。(ここで私が脱線云々と言っているのは、五井先生の教説に対して、という事では無く、本心というもの”ここに在る”所から、という意味合いです)
そんな中、どっかに五井先生の道に新風を吹き込むような在り方は無いものか、とネットを探っていたら、こういう言葉を見つけました。
”五井先生の消えてゆく姿の教えは、聖霊に、神に委ね切ることの準備なのです”と言う意味のものなのでした。
このブロガーは現在、「奇跡のコース」(私は関連の本を少し読んだくらいで詳しいことは知りません)を中心に学ばれているようですが、五井先生の道がバックボーンに有るようなのです。その言葉から五井先生の道からこの新しい道へとごく自然に受容されている様子が伺われました。
この方に限らず、この二つの道の受容の在り方というのが又結構存在しているようです。何となーく分かる気もしますが…
果たして「奇跡のコース」の発信源がイエス・キリストなのか、どうかは知る由も無いですが、先の言葉に接して私は、思わず身が頷かざるを得ないものが有りました。
私はずっと「消えて行く姿で世界平和の祈り」に邁進して来た訳でないので、とても偉そうなことは言えませんが、思い(マインド)が消えて行くという事は、自分の何かの努力、行とかで消えて行くもんじゃないですね。
自分という線が抜けないと、どっかで消えて行く…で無しに”消していく”になりがちです。
祈ることで個人も世界も調和がもたらされるという…しかし、それは自分の祈りの力でそうなる訳じゃないです。
あまり、自分の世界の不調和を何とかしなければ…とか自分の祈りで…という思いがもたげてくると、いつの間にか祈りというものが、一種の念的なものに変質してしまうものです。
思いは神的なもの(現臨、聖霊、守護の心霊…)と共にある時、消えるのです! それは、思いを超えたものが臨在するという事です。
それをこちらの方から言えば、思いを常に神の方に向ける事、すると神的なもので意識が満たされてきます。そして然るべき契機に全託の道が開かれます。
これを五井先生は、うまずたゆまず祈り続ける、という事で示したのでしょう。
五井先生は祈っていれば、いつの間にか悟る、というか本心が開ける、と何度も述べていますが、具体的にどんな風に、どうなってそうなるか…という事についてはほとんど言及されていません。
あたかも、”そういう事は然るべき人に任せているのです”と言いたげにも感じますが、そこに先生の役目が那辺にあったか、という事や時代相の違いといったものが観取されてくるようです。
もし現代に五井先生が生きておられたら、どういう教説をされるでしょうか?…同じように世界平和の祈りを提唱するでしょうか?…それとも印とかマンダラとかを降ろすでしょうか?…元より想像するしかない訳ですが、私は一教団の教祖として君臨することは無いだろう…と思っています。
おそらく、先生在世時よりも一段と人々に目覚めの契機が訪れやすくなった、今日の時代相に即した説き方をすると思います。
そしてこの時代は、一宗教、教団に閉じこもるような在り方は、如何にも時代遅れに我々の精神に映るのではありませんか?
こうした時代相の中にあって、時代相応に、又変わらぬ不変、普遍的な真理をくみ取ってこそ、先師の道は生きたものとなるでしょう…。









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瞑想モドキ

2016-08-16 13:29:27 | 祈りと瞑想
巷で瞑想と呼ばれているものには、何らかのやり方、技法というものが付き物のようですね。
昨年の今頃、いくつかの脱スピブログでやり玉に挙がっていたのは、ある種のマントラ瞑想でしたが(実に懐かしい話ですねえ…)、マントラをお金出して買うなんてことは論外として、これら技法の中で私に合いそうなのは祈りというものを想起させる、こういうものしかありません。今のところ…
瞑想で今花盛りなのは、イメージ瞑想と思われますが、私にはこれは全く不向きです。
瞑想中、イメージが浮かび上がってくるのは自然な事として、何故その発露が、よそから与えられるイメージで覆われなければならないのか? 何故そのイメージを思念で追いかけなけりゃならないのか?…私には全く理解出来ません!…何か暗示とか催眠のようなものにしか私には感じられないのです。
私が関わってきた瞑想というのは、あくまでこれらの瞑想の主流からはハミ出した”瞑想モドキ”のことです。それは祈りというものと分けられない、という事を何度か言っていますが、この意味でもモドキのものです。
特別なやり方が無い、技法に頼らない、ああしよう、こうしよう、という人為的な意念に頼らず、無為に任せるものという事が出来ます。
既存のもので、私が馴染んだものとして、知る人ぞ知る”元波動瞑想”と呼ばれるもの、クエーカーの”沈黙の祈り”がそれに通じると思われます。それは又、私が知る以前から無勝手流?で馴染んできたものです。
このうち、クエーカーの礼拝会で私は、現臨に捉えられた事が幾度か有りましたが、こう言ったからといって、”それは現臨が降りてくる秘法なのか?”と思われても困ります。
(以前、礼拝会で私が涙を流して、それこそクエーカー~震える人~のようになってしまった時、これをクエーカー入信の表明のように受け取られたのか、古い会員さんから「どう、決心なさった?」と問われ、困ってしまった事が有ります。私は特定の宗教の神サマに落ちてしまったことは一度もありません。見た目にはともかく…)
果たしてそういうものが降りてくるのかどうかは分からないです。
ただ無為に何にもしないで、坐り続けていても…多分、退屈な時間が過ぎ去っていくだけなんじゃないでしょうか…
皆が皆現臨(キリスト教的には聖霊)に捉えられたら、多分大変な事になるでしょう。
そこで何もしない、という事の意味合いですが、それは人為的な事はしない、意念にハタラキかけない、ということです。
それは取りも直さず、上よりの力の通り道を開けておくことです。
といってもいきなり人為的な事はしない、と言っても、取り付くシマも無いですね。
そこで、こっちとあっちとのエレベーター的な役目のようなものとして、祈り的なものが有るのです。
取っ掛かりは人為的なものであっても、祈るという事は、自分の力を超えたものに意識が向けられるものです。
何をどう祈るとか、声を出して祈るか、どうかというよりも、なるべく自然と湧き出てくるものに任せたらいいと思います。
私は、クエーカーのような瞑想に近い祈りばかりでなく、普通の教会でやるような手を合わせ、声を出して祈るような場でも、現臨に捉えられてしまったことも有るのですが、まさその経験を言っているのです。最初は何だかわざとらしい、と感じていたものですが、いつの間にか上から加持を受けたような感じになって、無心な状態に移行してしまったのです。
ここに表側と裏側の妙が有る…(十字架の聖ヨハネなどのキリスト教神秘主義で、能動的祈りから受動的祈りへの移行とか言っているのは、多分こうしたことと関連しているのでしょう)
瞑想のようなものであっても、祈りの心持というものとは切り離すことが出来ません。
”意識がパッと向いちゃって、アララ~…”と言ったって、その基調あってのものであるのは言うまでもありません。
初めは形らしきものが有っても、いつの間にか無為な、自由な感じになってくる…
祈りということは、上よりの力に自由にハタラいて頂く、ということに通じますが、…それには又我々も自由であるべきです。
ベルジャーエフが「聖霊は自由な精神に働く、それは神への自由な応答による」と述べているように、聖霊を受けるという事は神的なものと人間的なものの自由な交流と言えるでしょう。
だから、私は瞑想だとかある形を連想させるものでなく、瞑想モドキと言いたいのです…。

















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ひと夏のこの世の終わり

2016-08-15 13:14:55 | 詩的文章
僕は今、この世の終わりの淵に立たされているのだろうか…
暗闇が僕の全てを奪ったかと思いきや、
その間から光の柱が立ち昇る…
現前に広がる光と闇のコントラスト
そして…厳かに満ちた審判が始まる…

”主よ!僕は一体何を手放さなければならないのですか!
あなたのみ国には何が残されるのですか!
僕にはまだ執着が有ります
あなたの光の剣で断ち切って下さい!
僕に出来る事は何もない…
全てをあなたの御手にゆだねます…”

僕はその時、引っ越しを控えていた
荷物の整理を余儀なくされていた
大切な本、レコード…涙を飲んで手放すことを考えていた
一体、どれにしたらいいんだろうか…

七年前の夏、クエーカーの礼拝会…
現臨が望む時、どんな子細な事柄でさえも、
世界の終わり、新天新地の大ドラマに変えてしまう…
そして…子細な事柄に隠れた問題、重荷も取り払われた
僕のチッポケな世界は確かに変容した

後にある人から尋ねられた
「あなたの抱えている深刻な問題…お察しします…
あなたに何か助けになることはありませんか?」
「助け?…それでしたらアリさんかクロネコさん(引っ越し屋さんの事)がうまくやってくれると思いますよ!
心思いはまだ多少ありますが、もう大方断ち切りましたから大丈夫ですよ…」

集う人々はそれぞれの思いを秘めて祈り坐っている
安息日を守っている(居眠り)人も居る事だろう
だが、ひと夏の変容のことを知る人は誰も居ない…













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妥協の無い精神

2016-08-14 13:54:33 | 求道、探究
”現臨が降臨…特別な方法など無しに、ただ意識を向けるだけで現臨が降りてくる…”
などと以前は取り付く島の無いような事を書いていましたが…
やはりですねえ…これは追いかけようとしたり、捉えようとしたりすると、遠退いて行ってしまうものなので、”こういうやり方がある!”などと心に無いことは書く気にはなりません。
”意識を向ける”なんてことは敢えて言う必要も無いことで、ある人たちは放っておいても自然にそういう事になってしまうのです。
つまり、やり方などに頼らなくても意識が向いちゃってしまうのです。
何ににかって?…多分その人が感じられ得る最善の何かに、でしょう。
そのものを目の当たりにする以前から、ある人にはどこかで感取出来るのでしょう。
これを”元々その人に有るものだから”という言い方も出来ますが、とにかくそれこそ”意識する、しないに関わらず”、理屈なしに引き付けられてしまうものなのです。
祈り…祈り心は大切と私はいつも思っていますが、前述の向いちゃう人というのは(祈りというものの解釈はおいといて)、大体そういう心持になってしまうものです。最善のものに会うという事がどういう心の姿勢かという事が自ずと分からされるのです。
これは理屈、方法に従うとかって話じゃありませんね。
こういう事というのは、実際にそっちに意識が向かない向きには、スルーしてもらうしかないようです。
というか、大多数の向きはもうスルーされていますね!…意味分からんでしょうし…(ハイ、意味の無いこと書いてます)
要するに関心が無ければ、好きでなければ意識が向きようが無い…これはどうしようもないことですね。人はそれぞれ意識が向いた方に赴く訳です。
意識が向かないことを向け変えようとするのは、一種の暴力みたいなものです。
科学的に実証されたものにしか真実を見出され得ない向きは、トコトン気が済むまで追求されたらいい…
人生は自分の力で切り開くもので、神や宗教などに頼るべきでない、という向き…
自分が信奉している教えにしか真実は無いと愚直なまでに信じる向き…
ひたすら自分の心身の向上、進歩、あるいは悟境をめざし、修行に邁進する向き…
気が済むまで追及、精進なさったらいいでしょう…
この点、信仰の強要とか人心を扇動する言動というのは、その発信自体中途半端な、不十全な意識の顕れと言えるでしょう。
これに同じように、中途半端な、不十全な意識が流れて行くものです。
こういう馴れ合いで無しに、自ら湧き出てくる意識にトコトン従ってほしいものです。
ただ、無責任かもしれませんが、私にはそれぞれの向きが果たして然るべきところに導くものなのか、どうかという事は分からないです。
言うまでも無く私は、価値観や見地の違う、各々の人間ではないから…
私自身が向かうところにしたって、ホントにそうなのかどうかも分かりません。
ただ、自ずと意識が向いちゃったんだから仕方がありません。
そして、それは今の私の限界内では最善の道だった、と言えます。
(もし、人生の最後かなんかの局面で、最善だったかと問われた場合には分からないことですけれども…)
最善という表現を自分が許していることは、自分が捉えようとしたことでなく、捉われてしまったことであり、そこで目の当たりにしたことは、すべての思われたまま、考え得るものを超えていた、という事です。
こういう事というのは、ある事にトコトン生き切って、何らかの決着点が与えられた上でないと、本来開かれないものなのかも分かりません。
又、何故私のように人生の多くの局面ですぐ妥協して、弱音を吐いたり、ある道を歩んでいても容易く道を変えてしまう、中途半端な人間がそういう事になるのかも全く分かりません。
余程イイカゲンということなのでしょうか? 不十全感の固まりだったのでしょうか?
ただ、一点だけ、”最善のものは自分で掴み取るのでなく、与えられるものだ…”という予感が与えられてからは、その時機を妥協の無い精神で待ち望んでいたのです。
これは私自身に関することですが、各々においても妥協することなく、各々の最善の道を歩まれんことを願うばかりです。


























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