人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

現臨

2016-08-13 12:04:15 | 現臨、ハタラキ
真理は”今ここ”に在る、と言う…
すると人は、過ぎ去った過去、来ない先の未来でない、今ここ、現在を探そうとする
永久に捉えられないものなのに…
現在というもの…現に在るもの
それはここに、現在なるものが開かれなければ…
我々自体、そも現在出来ないのではないか…
現実に今ここに臨んでくるもの…現臨

現臨あって、私ははじめて私になる
私自らにその根拠は無い、
現臨こそは源であり、拠り所
現臨をよそにしては…
私の人生、私の世界、私の歴史も開かれようが無い
現臨は人間の始まりと終わりの起点か…

人はたづねる…
私とは…人生とは…愛とは…神とは…???
その意味とは…意味を知って、その目的とは…
~についてのことを巡っての果てしの無い問いかけ…
これにピリオドがあるのだろうか…答えがあるのだろうか…
もっともらしい、一応の答えで自分で決着をつけてしまうだけではないのか…
私にはどんな答えも見つけることは出来ない
答えを見つけようとすること自体…無意味だ!
現臨が現臨するところ…そのものを目の当たりにする
人が知ろうとし、得ようとしたもの
それは影を求めるように、追えば遠のいてしまうようなものでは無かったか
現臨にあって、思われていたものが現つとなり、
もののカゲに隠れていたものが、顕わとなる
現臨は、隠れた世界と表れた世界の結び目
顕幽の扉が開くとき、新たなる世界が開かれる

神、ダイモーン、キリスト、阿弥陀仏…現臨は様々な名で呼ばれてきた…
私には特有の名で呼び、特有の属性をそのものに着すという権限は与えられていない
そのものは仮称で呼ぶ権限しか与えられていない
故に…現臨
私には、何ものでも無いものこそが…他には代えられないものなのだ
一にして、すべてなるもの…
現臨は抽象では無い
現に臨むもののことである
現臨が現臨する…それは神の国の目の当たりの証…


















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大調和世界観

2016-08-12 16:33:22 | 秘教、その他団体
「今 その 時”人類の意志”は、我等が、その 全人生を一貫して、大命し…来たり、
今 その 機”人類の大業”は、我等が、その全存在を開解(かいげ)して、大作用…を、事…創めするに いたりました。
取りて後あるの その世界は終わりを告げて 今 一切が成れるの世界が開かれた
求めて後得るの その世界は終わりを告げて 今 一切が充てるの世界が現われた」
                      (大調和世界観開顕之聖業発祥)

これはD会のM師を通じて、人類に向けてのある種の宣言文の一節です。
その内容はとても一口では言い得ないものですが、人類が求めて、探究してやまなかったものが、ここD会を機縁とした時機において、自他、一なるもの、多なるものを一つにハタラクもの…大調和世界観なるものの顕現を告げているのです。
それは一コの信仰、思想、個人の悟境によるものでない、人類的なものであることを謳っています。
昭和20年8月、M師が広島で被爆され、終戦直後の悲惨な状況を目の当たりにしたことに端を発し、後に周囲に起こった奇しき人間関係を巡る転回から目覚まされたものなのでした。つまりそれは、焦土…地獄のような様相の中から産声を上げたのです。
今日、その説き方、有り様は様々なれど、”探究は終わりです…求めているものはここにある…”と言った言葉に接するのも珍しくなくなりました。
これは、”コチラから…”彼方にある物を求め、目指すという方向軸から、”アチラから…”成ってくるというコペルニクス的転換を示唆していると思います。
別の観方、表し方をすれば、元々あったもの、失ったものの回復という事も出来るでしょう。
こう言っても、今でも彼方にある神、真理を目差してたゆまぬ修行、研鑽をし続けている向きもあります。
そこには、そうしなければならない理由、因縁もあるだろうし、”そんなことしたって意味など無い”とも私は言うつもりもありません。
ただ感ずるに、そこには、自分修行して、自分悟るものだ、という思念が根強くあるようです。
そして、一歩一歩前進して行けばより高き境地、やがて神と等しくなると…
個人といい、人類といい、これまでこうした見地というものが支配的と言えます。
しかし…ある日突然、世界が核戦争に見舞われたらどうなるだろう…
又、突如アセンションとかで、世界が神の国になってしまったらどうなるだろう…
破壊か、創造か…どちらにせよ求め、得ようとしたことにピリオドが打たれる…
皆吹っ飛ぶか、皆神の国にブッ飛ぶかどっちかではないか!
核兵器の出現と(D会で言われるような)大調和世界観的なものの顕現…私はここにパラレルのようなものを感じざるを得ません。

如何にも分かったような事を言ってますが、私がこうした言葉に初めて接したのは、昭和53年8月、初めての関西…そして今からは考えられないような突飛な衝動、試み…D会を訪れたことに依っています。私はそこで頂いた資料を読みながら正直、一体何を言っているのか、何を伝えているのかサッパリ分かりませんでした。
当時の私は神、真理への道は遠く、たゆまない修行、研鑽を要するもの、という思いが根強くあったからです。そして又、エーテル的、オカルト的な霧がかった空気というものも脳内に立ち込めていました。
東京より一際暑い初めての関西、冷房の効かない京都の安宿で、”大調和世界観…これは果たして人類の福音か…はたまた誇大妄想の所産か…”などと寝付かれない夜、思慮を巡らしていたものです。
その数日間の旅を通じてずっと気になっていて、知らず知らずのうちに、私はこの自分ではどうにも捉えられないものに、”捉えられてしまった”のかも分かりません。
東京に戻ってきた時は、一段と涼しく感じられ、何となく秋めいて感じられました。
私に別なる、新しい風がほのかに吹き始めたようでした…。






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風が吹く

2016-08-10 13:02:57 | 雑感
いやあ、暑いですねえ…昨日の都内の最高気温38度弱!…(これはこの夏のマックスか?)久しぶりに熱風が肌に当たってヒリヒリするのを感じました。
日本の裏側のリオにも熱い風が吹いてますね。
目が覚めたら又メダル…こんなメダルラッシュ誰が予想したでしょうか…
今季、日本の総メダル獲得数?…”まあ、15個くらいがいいとこではないか…”なんて言っていたヤツは誰だ!…私。
(だって、内心期待していることを膨らませて、断定調で言ったら風が吹かなくなるでしょう?
昨年の夏のなでしこジャパンの決勝戦で、私は学習したんです!あれは予言インコのせいじゃない…
こういう事は良いことも悪いことも心象に留めておくに限るのです)
今朝のバタフライ決勝の時、窓から涼風が吹き込んできました。強豪揃いの面々の中で、ダークホース坂井が銀! これまで何度、ゴール直前での馬力不足、外人選手の追い上げに泣かされてきたことか!…涼風と相まって思わず鳥肌が立ちました。
(神がかった愛ちゃんは?…今年的には”神っている”と言うのではないの?…広島に吹いていた風向きは東都に変わったの?…明言などしませんけど…)
とにかく、先月の終わりから今月に入って、色々な面で風が吹いているのを感じています。

誰でも何をしても上手くいかない、ロクな事が起きない時期が続いたり、逆に何だか良いことは、ほっといても勝手に向こうからやってくる…という経験が有ると思います。
こうしたことには結構、月の変わり目がツキの変わり目だったりとか外気、空気の変化に負うている部分というものもバカにならないものが有ります。
私の経験では、ツキに見放されたような、ロクな事が起きない日が続くというのは、大体毎日無風状態のような天候が続いていたりしています。
これは決して安定した天候とは言えない、風が吹かないというのは、風邪をひかない体と同じで健全とは言えないでしょう。
逆に毎日天候に変化があったら(極端なものだったら勿論別ですが)、少しばかり不都合な事が起きても、雲が風に流れるように、雨が洗い流してくれるように、あまり思いが引っかからなくなります。
私には季節の変わり目、風向きが変わった事で、このように運が変わり出したとか心境が変わり出したことが何度もあります。
又、ツキに見放されることは、思いが引っかかり易いということであり、それは外気などの影響のみならず、自分の心身においても血行の流れがよくなかったり、気の巡りが悪かったりするものです。
という事は、自分の外の気と、自分の内に有る気には相関が有るという事なのです。
そして、この外気などの影響が現れる前に、内面的にジワジワっと何かがキテいるものなのです。
この点からも、私が何度か触れているように部屋を密閉空間にしないで、絶えず通気口を開けておくことが肝要です。内面的な面でも。
気は滞ることから気枯れ、ケガレとなり、流れてこそ風となり心身を活性化させてくれます。
風はプノイマ、イキであり、霊なるハタラキです。
見えないところでは、表だけでは全く関係の無さそうな事柄が、どう絡まっているのか計り知れないものが有ります。
そういう事をここ最近の天候、特に雲の動きとか見てて感じているのです。(要するにヒマだってこと…)
積乱雲というのは、あっという間に巨大化するんですよ。先月下旬、ヒマな仕事場で、見る見るうちに底辺が黒く垂れさがり、上方の白色とコントラストが浮かび上がるのを昂揚とした気分で遠目に観ていたんですが、その下は、灰色の雨足のベールが垂れていて、ものすごい雷雨の模様。雲の動きを見てたら風向きも分かる…南風だからこっちはソレるから大丈夫、と思ってたら、いきなり北風が吹き込んできて、”ヤバイ、こっちに来るぞ!”という間に土砂降りに見舞われました。
それからというもの、もう色々な事が…
…史上初の女性都知事誕生…イチローのメジャー通算3000本安打達成…本来、憲法、国政などとは別個にあるべきはずの天皇の公務に関した”お気持ち”の表明…
これらがどうつながるのか、関係無いのかは分かりませんが、私はハッキリ、新しい風が吹いているのを感じています。










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灰色と虹色

2016-08-08 15:31:26 | 詩的文章
シュー…シュー…

またか!…いい加減にしてほしい…
この音にゃ、すぐ反応しちゃうんだ
何故か、あれが始まる前に気付くことも有るんだ
オフクロが又ガス栓をひねった…

大学4年の頃、オフクロがああいう状態にもかかわらず、
僕は普通に大学にも、バイトにも通っていた
よく何事も無く過ごせたものだ…
家に帰りたくない時もあった
一思いに…という事も一瞬過ることも有った
それでも…翌夏の最後まで何事も無かった…

僕は思っていた以上に不幸な境涯にあったのだろうか
寝たきりのオフクロ
ほとんど帰らないオヤジ…
重く、つらい日々…だったとは思うが…
思い出せない…
僕のこの時期を彩っていたのは、灰色じゃないのだ
発酵するような意識の高揚感
灰色は千変万化する虹色にかき消されてしまったのか…

虹は晴天には現れない
暴風雨が去って
屈折する光の織りなすカレイドスコープ
灰色の雲間に、忽然と広がる虹
憂愁を呼ぶ夕陽に、一層際立つ
黄金に、紫に染めゆく
灰色の雲…

燃えるような高揚感
アリアリと肌身に感じるようによみがえってくる
僕は身に覚えているのだ
細胞の一つ一つが記憶しているように
そして…それを際立たせるのは
忘れられた悲しみ…













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磐座ー見えぬものの媒体

2016-08-07 16:01:52 | 日本的霊性
カタカムナ文献が発見されたのは、神戸東灘の金鳥山でしたが、関西在住の頃、体力に自信の無かった私はそのゆかりの山頂へは行ったことが無いのですが、その中腹にある保久良神社へは何度か訪れた事が有ります。
周囲には巨石がゴロゴロしていて、私は一目で”こんなん自然の作用で出来る訳ないだろう…”と感じたものでしたが、この巨石は磐座と呼ばれ、神社の原始形態とされていることは知られています。常識的な世界では、それらは自然石という事にされているようですが…
ここに限らず、西宮から神戸にかけての所謂六甲山系というのは、こうした巨石のモニュメントが数多く点在しています。
この地(磁)場こそ通称カタカムナ文明の中心だったのでしょうか。
他にも関西近辺では、紀伊の大台ケ原、京都(残念ながら市内にあったと思われるその多くは土中に埋められていたり、削り取られたりしています)など…私は何度かこうした地場を訪れているうち、”この巨石には何かが有る…体に染み込んでくる何かの波動のようなものが…”と感じるようになりました。
古来から聖地と言われ、奇談が伝わっているところには、こういう具体的にして、しかも名状し難い事由が存しているのでしょう。
出口王仁三郎師や宮地神仙道の開祖、宮地水位師が異界に出入したのは、それぞれ亀岡の高熊山、高知の潮江天満宮の磐座でしたが、私は神秘めかした表現であってもそれに偏ったり、捉われなければ無暗に否定したりなどしません。
逆にそのすべてを物理的なものに還元出来るものとも考えていません。
波動とかパワーなどと言うと、様々な尾ひれが付きまとい、あるいは超能力めいたものとも結び付けられて語られがちですが、私はこの感受は特殊な能力とは関係ないものだと確信しています。
どちらにせよ、先入観に捉われることなく、自分で確かめる事が大切だと思います。

22年ほど前、ある瞑想会の広島の宮島でのリトリートに参加したことがありましたが、ここの弥山の山頂付近が又、目を見張る巨石群と猿の群れがタムロしているのでした。
(その数十人いたほとんどの参加者は”いや、自然界には不思議な力が有るものだ、こんなケッタイな岩を造り出すなんて…”といった風で、私の”これは間違いなく古代人のモニュメントだ!”と言う主張には冷ややかなのでしたが、やがて現地のガイドがやって来て”古代の祭祀跡です!”と天啓を一言…それからは誰もその話題には触れなくなりました)
そこでは自分が波動を感受しやすいところで瞑想することが主眼だったのですが、私はもう、実際にそのように示されるのは磐座ばかりで、自分を波動の依代にして、(猿の奇襲にもめげず)瞑想三昧してるうち、磐座によって粗かったり、微妙なものだったり、波動の感じ方が違うことなど体感できたのは大変貴重でした。
平成14年の夏だったか、クエーカーの修養会が琵琶湖畔、北小松の同志社のリトリート・センターで持たれたのでしたが、私はその地に踏み入れた時から、何だかとても清々しい快感に包まれたのを感じました。そして付近には何やらそれっぽい雰囲気が…
あにはからんや、そこは古代祭祀場跡に隣接して建造されていたのです。
その快い息吹を醸し出しているのは、どうやらその近代的建造物からでは無く、もともとの地場から来るものと確信しました。
私が探索した限り、周囲には目だったものでは無いものの、磐座の痕跡も認められました。
その施設の集会場となっているところ、(”ペテロの岩”なるオブジェが有る)そこが実に強い波動ポイントのように感じられたのですが、見たところそれらしき痕跡は無いのです。どうも土中に波動の媒体が隠れているようにも感じたのですが…
そして、そこで持たれた合同礼拝会(といっても瞑想に近いものですが)は、忘れ難いものとなったのでした。
”今日は何かが起こる、もう始まる前からジンジンしてきた”という予感の通り、集う人は十人にも満たなかったでしたが、参加したほとんどの人が(中には涙を流す人も居た)自然発生的に起こる歓喜を実感したようでした。
何か古代の祭祀風景というものもこんなだったのではないか…と感じたものです。

異界への通路とまではいわないまでも、古来から磐座は潜象と現象の重要な結び目、媒体だったのでしょう。
外国ではほとんど廃れてしまった、こうした古代からの風儀も我が国には、神社という形でその面影は保たれているのです。
それも、我々自らが生ける宮、生ける媒体であることの証あってのものであるのは言うまでもありません。

















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