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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

光明と裁き

2016-08-06 19:18:54 | 意識、照明
今日は以前書こうとしてたけど、何か抵抗するもの、押しとどめようとするものが有って(闇の勢力の陰謀か?)、書けなかったことを意を決して書いてみます!
”全てを見通す目に照らされる…”とか”上よりの光、現臨に全てを奪われる”なんてこと示されると神の裁き、審判のようなものを連想される方も居られるかもしれません。
意識的でか、無意識的でか、自分の中でずっと隠していた悪いこと、思いなどが明るみにされるらしい…果たして、裁きというような事が有るのか、どうか…
さあ…
私にはあなた自身がどう感じるか、どう観るか…というような事には何とも申し上げられません。
ひょっとして、あなたが最も恐れているような事態にも見舞われるのかもしれない…そうなってみないとわかりません。
ただ、あなたの思いはどうであろうと、あなたの魂が望んでいることしか起き得ないでしょう…
私について言えば…”裁きみたいのはきっとあるに違いない”という思いは根強くありましたよ。実際にそうなってみるまでは…
でも、同じように”僕は自分自身では自分が確信できる道、ホントにホントに身が頷かざるを得ない道というものは見出すことが出来ないだろう…決定的な光明のようなものに照らされなければならないのだ!”という思念も拭い去れずに持ち続けていたのです。
そして…この相反する二つの思いが、あの神秘の門の前でついに相対自することになったのです。
これはさしずめ、善と悪とのハルマゲドンの戦いとでもいいましょうか?
30数年前、8月の真夏の体を差すように照り付ける太陽…原因不明のその日の朝から続いている高熱による、思考機能の低下がこの戦いの場を引き寄せたのです。…
というストーリーもコミックやドラマの世界だったら面白いでしょうが、実はこれは私の思いを超えたところでの要求がもたらした、とも言えるのです。
宗教、スピ界では当たり前のように神、真理について語られます。しかし、そこで意識の有り様次第で全く違った様相に導かれるものです。
それは神、真理というものを自己の思念の限界内に取り込んでしまうか、そこから超え出るか、ということで別れてきます。
全てを見通す神の裁き…コワイですか?…それとも意識が昂揚してきますか?
このように、エンライトメント、光明に預かるとか目覚めと言われるものと神の裁き、審判と思われているものというのは実に裏表のものではないですか?
前者については、チッポケな自分の見識などに留まることが出来ず、自分を超えたところからの光明を受け入れる、という気概を持たない者には開かれるものではないでしょう。(もっとも自分の思いでは分からなくとも、より深いところではそれを求めていたりするものですが…)
こう考えると、そもそも陰謀論者などで取り沙汰されている、闇の勢力って一体なんだと思いますか?
自分自身の目で見たことも無い、その闇の勢力のことやら高次元やら前世…アレコレの空想を逞しくして、リアルな現実~現臨が臨む場~から遊離させる浮いた思念。
とりわけ、”これしか真理は無い!”といった自己の限られた思いに固着し、自己を超えた、上よりの光を覆い隠し、遠ざけようとする思念のことではありませんか?
もしかしたら現実に世界の裏面で暗躍する闇の結社のようなものも実在するのかもしれません。
しかし、我々の上よりの光を拒み続ける、閉ざされた意識状態というものと、彼らの光の隠蔽工作というものが有るのなら、それは一蓮托生のような関係と言えるでしょう。
こういう事書いているからと言って、何もそうしたものを糾弾しようなんてつもりはありません。
ただあまりにも陰謀論などには近視眼的な観方というものが目に付くもので…
あの全てを見通すような目に照らされることに恐れを抱く気持ちも分かります。
皆それぞれの自由意志で生きている訳ですから…
自由は尊重されるべきです。言ってはならず、言わねばならず…
以前、こういう事を書こうとするのを押しとどめようとした闇の勢力の正体とは…
この葛藤のようでした…。




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天国は待ってくれない

2016-08-04 18:29:04 | 独語
悪しき心、不調和な心を善き方、調和の方に向きかえれば聖なる人間になれる
前世からの業、カルマを浄化しないと神のようになれない…
まだまだ至らない自分だけど、一歩一歩神に近づこう…

僕には楽観的なのか、悲観的なのかはよく分からない
世の中には出来そうにないことを夢想している人もいるものだ
よっぽど強靭な精神の持ち主か、
全く思考が停止しているかしているのだろう…
心というものが自分の意志で変えられると思っているようだ
まして…前世からのカルマなど…
昨日のことでさえ僕は覚えちゃいないよ!
悪しき心、悪いカルマ…
一体どれだけ励んだら、そういうの、消えて行くんだろ?
何十年もやり続けている人も居るらしい
いつも同じこと言ってて、同じルーティンに励んで…
飽きないのだろうか?…何て気の長い人たちなのだろう…

僕はとてもあなたには顔向け出来ない人間です…
悪い心を改めて、カルマを解消しなければならないんですから…
だから…何だか知らないけど、
この信じられないような眩さはちょっと待ってくれませんか?
は…半分くらいじゃだめですか?
頭の中には辛うじてそのくらいは保たれている
ぜ、全部…ですか…
寸時も待てないだって…
思案の時間はもう終わり
あの手が僕の全てを奪った…

天国への道のりはそんなに長いものだろうか?
この世にはかつて一度も無かったものなのだろうか?
いや…あの人たちは何故、それが無いかのように、
来ないかのように待ち望んでいるのだろうか?
神が”これで良し!”と言うまで何かを果たさなければならないのか…
まるでずっと何かを先延ばしにしているかのように…
悪い者にずっとずっと背を向けようとして、ずっとずっと手放せない…
悪い自分も神なる自分も…自分でどうなるものじゃないのに…
ホントに自分でどうにもならないことになったなら…
門は開かれる!
いいや…それは頭の中の”何でも出来る人”、”正しい人”によって、ずっと閉ざされていたものなのだ
しかし…天国は開かれた時には、拒んでも否応無しにやってくる
天国は待ってくれない…
























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カタカムナのウタヒ

2016-08-03 16:10:59 | 人生の裏側の図書室
一部のスピ系の間では、通称「カタカムナのウタヒ」と呼ばれる謎の古文献の存在が隠然たる影響を放っていることが知られています。
私にはずっと頭のどっかにこの文献の存在がチラついているのか、もしかしたらそれがこのブログを書かせているのか?などとも近頃感じております。
この文献自体の信憑性については、発見者とされる楢崎皐月師によるノートへの写し書きしか存在せず、その発見に至る経緯が、かなり神秘めかした話(中国の謎の道士の言い伝え、その伝承の由来となる神戸、金鳥山頂に居たという仙人みたいな存在など)に彩られていることも有り、疑わしい点も多々あります。
だが、このブログを読まれている方ならお分かりのように、私には客観的信憑性など二の次なのです。
(第一、数万年前のオリジナルな資料など存在していること自体が非現実的な話ではありませんか!)
一義的な問題とは、そこに何が書かれているのか、何を伝えようとしているのか…それに尽きるのです!
楢崎師の弟子、宇野多美恵女史が十数巻もの「相似象」誌(相似象学会刊)を出されていますが、一般書店では扱ってません。
私は未読ですが、関川一郎著「カタカムナへの道―潜象物理入門」(Eco・クリエイティブ刊)という本は前記のものをまとめた内容らしいです。

それにしても、この幾何学的な文字…それは神代文字か宇宙文字か、何かの秘教の暗号文字か分からないが、”アマ、カム、ヤタノカカミ、トコタチ…”楢崎師は一体どうやってその意味を解読出来たのか、知る由も無いですが、潜象、相似象、アマ始元量、互換重合性…この意味合い自体が実に理学的でわかりづらいものですが、私の心象にはこれらが息づいています。
概念としての理解を進めるよりも、心象にフト何か感じて、そこで味わってみることが重要じゃないかと思います。
楢崎師、宇野女史ともに物理科学に深く通じた方なので、その理解の仕方、説明にはそうしたものがかなり反映されていますが、上古代人には物理とか哲学などの概念など無かったのは言うまでもないことでしょう。
彼らには、潜象、現象などを二元と観ずに統合された一つのものとして理解出来る感性を有していた…そういう意識の有り様というものを抜きにしては、こうした哲理は本当には我々現代人には伝わってこないでしょう。
だからこそ、宇野女史はその伝えているヒビキを感受すること、感受性を養う事を幾度も強調しているのです。

フラクタル構造…葡萄状に相即する相似形…
時間と空間は一つのマ(間)である…
個的なものと普遍的なもの、超越性と内在性など相反するものの矛盾の無い重合、調和…
私はこうした「カタカムナ」に通底したものを目の当たりにした事が有ります。
目の当たりにするとは、分かる自分、見ている自分とその分かる対象、見る対象が無くなることです。
何かについて…では無い!、まんまだ、ということです!
何を実感しているのかよく分からないが、”そうなんだ!”という理屈でない実感が有ります。
それが無ければいくら理屈を並べたってしょうがありません!
もとより到底ここで言い表すことは出来ませんが、アマ、カム…この見える世界をそうあらしめている元なるハタラキといったものが言葉を超えて伝わってくるようです。
ただ、私にはこの文献資料に触れていて物足りないと感じていることが有ります。
それは、前述したように理学的な表現、アプローチに傾いているためか、というものが伝わってこない、という点です。
愛とハタラキというものは一つのもののはずです。
アマやカムという始元的ハタラキに引き付けられるという事は愛がハタラくからでありましょう。
この自体もハタラキという事でもあるのですが、善きにつけ、悪しきにつけ知恵が発達してしまった、人間元なるものに引き合わさせられるものは、というものよりを実感することではないでしょうか?
いずれにせよ、科学偏重の現実世界も行き詰まりの様相を見せ、同時にこれまで隠れていた事象が顕わになって、見えるものと見えないもの、古のものと新しいもの、本と末とが一つにされてくるのを身に覚えます。















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潜象と現象

2016-08-01 19:52:04 | 哲学・思想
当たり前の話ですけど、この世界は現象界だと言われています。
現れている世界、目に見える世界…
このように在らしめているものというのは、時間と空間らしい…
いや、待てよ…時間も空間なんて見えやしないぞ!
微粒子、波動…どっちが現象界の元となる要素なのか知らないが、いくら科学的にその存在が立証されようと、誰か肉眼で見たヤツなどいないだろう…
空気が無いと、我々は生きていけないことは分かっているけど、それも見えない…という事は捉えることは出来ない…こんなに現象として見る事も捉える事も出来ないものばかりだって言うのに、その見えない世界についての呼称というのは…
無い!…な、何故なんでしょう!
私の幼い頃からの疑問…例えば何にも無かった空に雲が出た…”それはね、地表で温められた空気が上昇して水蒸気になって云々…”いや、そういう事じゃなーい!…何でそうなっているのか!ってこと…水は高いところから低いところへ流れる…何故内臓は誰かが操作しているように寸分も狂いなく働いているのか?
我々の周りはこのような不思議な事で一杯だけど、そもそもの元からの有り様、成り立ちはどうなっているのか?…と、どこまでも食い下がって親父を困らせていました。そして答えは決まって”そうなっているから…”
我々はこういう事に当たり前のように接していて、学者が”万物は流転す”とか言って、あらゆるものは生成し続けるということは知識的にも知らされていますが、この生成、創造といったものの直接的体感…そもそも自分自身がそれ無しに存在し得ないもの、そのものについてはほとんどの者は目の当たりにしていないのです!
そして、いつの間にか”そうなっている”、”そうだとされている”こと、つまりは”見たまま、思われたままが全てである…”と錯覚してしまったのです。これは我々の思考が過度に偏ってしまったことに要因があるようです。
この生成、創造のリアルな真実というものは、現象の奥にある、見えざる領域を想定しない事には開示されることがありません。
ある人たちはこの見えざる領域を”霊界”というもので言い表したりします。
それも一面の理解を提供してくれるものなのかもしれませんが、現代科学によるものと同じく、その安易な迎合により固定観念に捉われる要因ともなり、又多くの人がやはり同じように直接に触れることは出来ず、観念的な理解でボカされたりします。
こういう訳で、こうした現象界の裏側の世界については今までハッキリ認識がなされてこなかったのです。
ところが…我が国の一部ではと呼ばれている概念が知られています。
通称「カタカムナ」という、上古代人の所謂超科学を伝えているとされる、神代文字と思しきもので書かれた古文献を発見し、解読したとされる物理学者、楢崎皐月師とその学統によって呼び慣らわされてきたのです。(この文献の実在性については多くのこの種の文献と同様、はっきりしたことは言えません)
潜象…隠れている有り様…現象というものが有れば、こういう言葉も有って当然と思われるのですが、こういう事が今まで認知されてこなかった、というところに現代文明の行き詰まりという現象が示されているのでしょう。すべての物柄が成り立たなくなりますから…
だからと言って、私はこの二つの事象の一方が真実で、一方は幻想(これは現象科学偏重の裏返し)…という偏った観方はしたくありません。
幻想と感じるのはむしろ、一方のみが真実だ…とする観方ではないでしょうか?
隠れているものが顕わになる…現れたものはまた隠れる…本があって末がある…これらは一連の一貫したハタラキと観るべきなのではないでしょうか?
そして今の時節は見えない潜象が益々現象化して来ているのを感じています。この事は、これまでの思われたままの有り様、想定していたことを超えたことが次々起きていることにも伺えるでしょう。
それは又潜象と現象との境界が無くなりつつあるようにも思われるのです…。






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