人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

誰の思いでもなく

2017-02-19 12:46:56 | 雑感
近頃何となく、気が滅入ったり、塞いだりすることが多くなった…
気分を変えようと、テレビをつけたらテロとかの悲惨な現場が映し出されていた…
ますます気持ちが暗-くなってきそう…
友人を誘って気晴らしに雑談でもしようと思ったら、些細な事で口論に…
こんなことになるんなら誘うんじゃなかった…
何故、こうやること、為すこと、いや思うことですらも…上手くいかないんだろう…
何とかせねば…ああ思い、こうトライしようとすれども、ますますアリ地獄に引きづり落ちるようにドツボにハマってゆきそう…
されど、出来る事は何も無い…

皆さんにはこのような経験はありませんか?
私は32年前の今時分、半年ぐらいの長く暗ーい、そんなトンネル状態のピークにありました。
キッカケはごく些細な事だった…なんだったっけ…
一つのことというより、直接的な要因でも無さそうな事も含めて、前記した様にイロイロ面白くないことが重なったりするうち、いつの間にかそんなことになってしまったのでした。
当時はそんな言葉も浸透しておらず、取り沙汰されていなかったと思うのですが、鬱病だったかもしれません。
こういう状態というのは、とにかく思いが何かに固着してしまい、それも蜘蛛の巣のように縦からも横からも雁字搦めにされる様になってしまうのです。
そして実感することは思いというものは、じっつに重いということです!
こういう事というのは、ある個人的なキッカケで起こり、思いの絡まりに捉われているのも個人だと経験者でしたら皆そう感じるでしょうね。でなきゃ起きる訳ありませんものね。
だけどねえ…それは幻想…かも知れません…(こういう時こそ、ノンデュアリティの出番というものでしょう!)
私は個人というものが有るとも、無いとも断じることなど出来ないし、その気もありませんが、それは個人的要因という観方もあるし、こういう観方もあるでしょう。
それは、こんがらがった関係性、複雑な絡まり合いの要因によるものだ、ということです。前記した蜘蛛の巣状のネット体を想起する通りのものです。悪いことが立て続けに起きる、というのもこういう理由からでしょう。
どういった関係性か、という事は一概には言えません。東京の片隅的規模なのか、人類的、宇宙的規模…何にせよ何の因果か代表して縺れが自分に生じているって事ですね。因果…それはカルマとも言えるでしょう。何の報いかは知らないけど…
このように個人を超えたところに要因が有るので、自分で何とかしようとしても、どうともならないのです。
だけどねえ…裏を返せば、自分でどうにもならないものは、自分を超えたところでどうにかなるってことじゃありませんか?
先の私の場合でも正にそうだったのです。アレよアレよと、いつの間にかドツボにハマって行ったものが、これまたいつの間にか、足かせが外れ、私を覆っていた重い空気の層がスーッと引いていってしまったのです。(これはもう、ホントに体感でした)三月のある夕刻に…(夕日です!)
私がちょいちょい外気などが変わると心も変わる、というのはこういう関連で述べていることなのです。
見える事象を通して見えない事象が顕れ、ハタラクのです!
”そんな些細な事でか”、という勿れ!…些細な事でひきこもるくせに! ごくごく他愛のないことだろうと、世界的規模のことだろうと起こることには変わりがなく、何であろうと自分の身に起きていることがこの世の一大事なのです。
あなたが重い思いを患っているんじゃない…あなたの関係体(これ自体が本当のあなたかもしれない)のカルマがあなたという結び目を通して解き放たれているかもしれないのです。
私はあの言い知れぬ開放感というものをずっと身に覚えているのです。
ところで、思いの雁字搦め状態に陥った時、なす術なくその苦しみに任せてしまうしかないのでしょうか?
多分、自分では何も出来ないでしょうね。でもせめてカーテンを開けるとか、窓を開けるとか、空気洗浄をするとか、そのくらいはしましょう。(僅かながらでも通気口を開けておく。そこから新鮮な空気、新しい息吹が入ってくる)後はそう、任せるしかない…自分を超えたものに…
空に夕日に飛ぶ鳥に路地裏の猫に託して…






































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見えざる宗教

2017-02-15 18:02:47 | 宗教
ある陰謀論者が言うには、キリスト教にはレプティリアン(トカゲ型異星人)のイキがかかっているそうな…
キリスト教のどの派とかについては詳しく述べられてなかったようですが…
ローマン・カソリックがあって、それに敵対するプロテスタントも正教もクエーカーも自称無教会もホントのリベラル無教会も…あのヤバイ十一教会も…
あのね…ちと十羽一絡げというか、括りが大雑把すぎやしませんか?
大本教…私がちと詳しく知っている、というだけで信者にされかねない宗派ですが、ある人は私が学生時代にその分派のM教団に入信していたこと、同じくその流れを持つ五井先生に傾倒していた経緯から、「だから君はやはり大本教なんだ!」と決めつけていました。
このように非常に直接、間接を問わず分派活動の激しい大本ですが、出口聖師が居た全盛時でも、同じ教団内に所謂開祖派、大先生(聖師)派が有り、外には熱烈に聖師に反逆した”大門八木派”、”肝川竜神派”などが有り、とても一つの大本では括れないような混沌とした状況を呈していたのでした。これが数多の分派活動を生む要因でもあった訳ですが、この辺りにも大本の宗教の雛形たる所以が伺えることが出来ます。
SGという言わずと知れた大手の新興宗教が有りますね。
(石原三十み…推測ですが、多分彼女は”主流派”ではあるまい…あのサラサラ、ロングヘア―がそれを物語っているようです。以前仕事で行った信濃町の”ゾーン(日本の中の治外圏?)”にはあんな髪型の女性は一人も見かけなかった…”あれは、会長好み~ショートじゃないからね…”と同僚は言っていたが、何で知っているんだ?)
私はその絡みで噂に聞くような狂信的な人たちを何人か見てきました。
だけど、とても同宗の人とは思えないようなリベラルな考えを持った人も知っています。(当然、この人は主流派でないだろう)
そういう人と接してみて前者との明らかな違いは、人の話を聞いてくれる、ということに尽きます。だから、結構突っ込んだ話にも及んだりするのです。
(ここで書いているような、訳の分からんような話にも付き合ってくれるのです。分かってくれたかどうかは別ですが…)
ある日、別の同僚が突然「SGだけは絶対に許せん!」とその批判、中傷をおっぱじめた事が有りました。
その人がやたらとSGに詳しいので、「君はもしや…」と吹っかけてみましたが「んな訳ないっショ!」と否定されました。
しかし、公然と知られる信者の同僚に聞いたら「んな訳ない訳ないやろ!」とのことでした。つまりアンチSGもSGだったのです!

宗教では、その信者たちは同じ教え、同じ修行をし、入信するだけで同じように救われるもの、と信じている者もいるようですが、”んな訳ないでしょうが!”
感性も機根も皆一人一人違うのに。”信じれば救われるとか”、”こうすれば悟れる”といった文句が如何に無意味なものであるかが知れようというものです。ある教え、行法も人によって向き、不向きがあるし、ある人は悟ることもあるかも知れないが、ある人はずっと同じところをグルグル回り続け、ある人はひたすら迷走、脱線し続ける…全く人間はブッダにもおシャカにもおダブツにもなれる…
だから…ある宗教は正しくて、ある宗教は間違い、異端、闇の勢力系などと乱暴に決めつける訳にはいきません。
ある教団で、闇の勢力下にある人はあなたの右隣に居るかも知れません。
又、あなたの左隣にいる人はあなたの導師かもわかりません。分かり切ったことですが、宗教信者である以前に誰もが独立した人間なのです。
現在は見せかけだけの救いは廃れ、一人一人の意識の在り方が問われている過程の真っ最中のようです。
それは宗教の外は勿論のこと、同じ宗教グループで括られている世界でも、その有り様、ミタマ相応に応じた精神世界がハッキリ立て分けされて形成されているのでしょう。見える宗教は終わり、見えざる一人一人の内なる宗教が興り始めているようです。
あなたの世界の救世主も、闇の世界の黒幕もあなた自身を置いて他にはいないのです…。








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もう一つの”あのさ”

2017-02-13 14:02:00 | 雑感
「神、仏、あの世…確かめようのないことを…」うん、うん、いいね…それで…
「信じたいと思います!」
そ、そっちか!…fumika!
分かろうとしている神サマはそう告げたの?

ここんとこ、知られざる芸能通?の私を悲しませるニュースが立て続けに起こっています。
幸福は科学で解明出来るのかどうか知らないけど、まあ、上手くやって欲しいものです。
例によって余計な事だけど…
彼女は未知なるもの、神秘なるものへの探究心を持っているように思います。
そうしたことを自分の目で見、自分の肌で感じ、直に触れる事って、想像するだけでワクワクしてこないですか?
人づてに聞いたこと、本に書いてあったこと、巷でそうだとされていること…などの予見のかからない生の知見…それを何かの霊言だとかにゆだねてしまうとは、何とも勿体ない…
知られざる道の探究には、あたえられた知性、感性の高みへの上昇、深みへの沈静が伴うものです。
それは原初的な内なる要求から、内なる神人から呼び起こされるのです。
でも、それも反知性主義、安易な信仰におもねるやその発露は、決めつけた言辞でたちどころに塞がってしまいます。
”霊界や天国や地獄はああなっている、こうなっている…未来はこうなることに決まっている…あなたの前世は誰某…”
人生で直に触れるべきことは、紙切れなんかでは伝えられません!
そして、人が信仰に走ってしまうのは、日常生活の悩み、苦しみ…
それにしても…人は見た目には分からないものですね。
あんなにネアカキャラだと思っていたのに…自分を”ゴミクズ”とか…もっと自分を信じ、愛せないものなのでしょうか?
確かどっかでこんなことをつぶやいていたと思います。(内容はよく覚えていないんですけど…)
”あの窓辺に映る日の光に自分をゆだねることが出来たなら…”というような…
きっと、彼女はそういう事に意識が向き、感じ取れるんだ、と思います。
いや、誰しもが…です! だけど…”出来たなら”…ですか?
意識に映り、感じ取れるということは、そこに無いことだと思いますか?
頭の中のイメージだけで決着が着けられてしまうのですか? 淡い願望だけで終わりにしちゃうのですか?
”あのさ…”
私は子供の頃から絶え間なく頭の中に覆いかぶさってゆく、思考の雁字搦め状態に陥ることがあったのですが、外気に触れる事とか、何てことないような事で、いつの間にかその苦境から脱したことしばしばでした。風向き次第でも変わるのです!
こんなこと言うと、他力本願的でちっとも主体性が無さそうですが、何てことないことに意識を向けると、”自分は自分だけで生きているんじゃない、頭だけで生きているんじゃない、空が、夕日が、鳥たちが「生きている、生かされている…それだけで幸せでない訳が無い!」と告げているようではないか!”と…じっつに何てことないどころでない、見たまま、感じたままの奥にある”もう一つの世界”を垣間見た思いがしたものです。
そして…”お前はこの生の、世界の神秘をもっと見て、感じてみたくないかね!”という払拭出来ない促しに導かれたようなのです。
何と多くの人は間近に人生の裏側の扉を見ていながら、人の意見、世の中の声、チッポケな頭の判断におもねり、それを遠い彼方のもの、夢の中のことにしてしまう事でしょう…そこに見て、感じられるものは、その扉の向こうに足を踏み入れることが出来るのです! リアルに感じられたのならリアルにそうならざるを得ません!
否、そのこと自体があの導きがあなたを引き寄せている、ということなのです!
と…まあ、これは、自分のことを言っているだけなんで、もう要らん事言いません…。
自分の人生は自分にしか分からない…
”自分以外に自分の真実のことを語れる人なんていない…”ホントですね! 真実とはリアルなもの…
色々な宗教、思想、生き方ってもんが有る…だけどこれだけは誰だって同じですね…
だから、ちょっと言いたくなっただけです…。

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それって正しいこと?

2017-02-12 11:35:14 | 詩的文章
あの一派は、聖書に書いてないことを教えている…
使徒信条に則っていないことを信じている…
「あれは異端ですよ!」と正しい先生は言っている…
”正しいキリスト教からズレていてはイケナイんですよ!”
正しいキリスト教徒になりたい、ありたいんなら、それでいい
でも…それであなたは救われるのだろうか?

”釈迦の本当の教えはこれこれである…”
実在性すら疑わしい、何千年も前の聖者に、色々な人が色々な観方をして、
決めつけたような言葉を張っている…何かを悟ったかのように…
釈迦の本当の教えを知り、信じたいのならそれでいい
でも…それであなたは救われたり、悟ったりできるだろうか?

”自分が信じているマスターは究極の境地に達している…”
それを信じていたら、あなたも肖れるのだろうか?
数多と存在する信者にそんな人が居るだろうか?
どっちにしても、あなたとは関係が無い

正しい人が設えた、悟りへの階段を苦節ン十年で、五段目に達した!…あと半分…”
人生は朝に生まれて、夕にくたばってしまうようなもの…
この世は平穏無事のようで、いつ核ミサイルが飛んでくるかわからない…
何十年、何百年後かにやってくるであろう、この世の終わりは明日かもわからない…
何段目だろうと、半分だろうと、入口のままだろうと…全てパア…ムダ…だ!

かように、人は正しいであろうことに、身を置きたがり、すがり、執し続ける…
あなたにとって、それが正しいことなのだろうか?
正しい人間でありたいのなら、それでいい
しかし…あなた自身の正しさは他の何ものにもおもねることなど出来ない…
アダなる正しいことを盾にして、閉じこもっていても、
あなた自身の正しさには、一歩も踏み出していない
どうあっても、こうあっても求めずにはいられないもの…
それは、どんな覚者、賢者も直接あなたに示してはくれない
あれが正しい、これが真実、あの人が言っている、聖典に書かれている…
頭の言う事に誤魔化されてはならない!
あなたがどうしても惹きつけてやまないものを、
人は、世の中は、見向きもせず、黙殺するかもしれない
だが、理屈抜きに愛に落ちてしまう、という事以上のあなたの正しさなど、どこにも無いではないか!
ハートの愛は決して裏切らない…






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隠れた神

2017-02-11 00:01:27 | 日本的霊性
古来より我が国に伝わる神道は、ノンデュアリティだという観方があります。
縄文人の心性もそれに根ざしていたのだ、とか…ホンマでっか?
じゃ、何で神社で神を祀ったり、拝んだりするの?…何で数えきれないくらい沢山の神サマが存在するの?
縄文時代には、こういう事とは少し趣の異なる信仰形態が有り、縄文人の意識構造も我々とはかなり違っていたのかもしれません。
ホントのところは縄文人に聞かなけりゃ分からないでしょうが…
私は今まで”神道とはこういうものだ…”という合点のいく言辞というものに接したことがありません。
というより神道には、一神教だとか多神教、汎神教、非二元、二元…どんな括り方も出来得ないものだという事を強く感じさせられます。
ある観方からすれば、それ自体あらゆるものを包み容れたホールネス(ワンネスとはちと違うニュアンス)なものを感じさせます。
だが、その各位相に目を向ければ、実に相対的なものが入り混じり、混沌、俗信、迷信、お伊勢さんも神道、怪しげな拝み屋さんも神道…何でもありのイイカゲンさが知らされます。まるで世界の縮図のようですね。
それでいて、これまでの歴史で宗教間の争いというものがほとんど無かった、というところがこの国の不思議サなのです。
この要因として、我々の心象にはずっと見えざる一者というものが根付いているという事が思わされます。
この一者は本来名付けられないものなのですが、古事記で天之御中主(アメノミナカヌシ)として出ている神がそれに想定されます。
この神の次元には始まりも終わりも無く…隠り身におわす…根源神というか、決して表に顕れないのです。
この神が仮現して、世に顕れる段階を広くアマテラス大神として表したり、出口王仁三郎師などは、国常立之尊(クニトコタチノミコト)として表したのでしょう。
日本神話はこの無始無終の根源的一なるものからイザナギ、イザナミ…と分かれていく様を天地の創造に見立てて展開し、生成流転の妙を伝えているのです。
分かれる、といってもそれは単純な分離でなく、新たな創造、産み成しです。産むという…この霊妙なるハタラキを産霊(ムスヒ)といいます。
ここにはどんなに千変万化し、際限なく枝分かれしようとも、根源的霊とつながっている、というヒビキが伝わってきます。
そして、そこには見た目は相対し、分離したように見えても、その多様世界を産み成したムスヒのハタラキは、ある節には再び各々を結び合わせる方向にハタラク、という思念も隠されているのです。つまり、ムスヒとはムスビにつながるのです。
古来から伝わる言葉にはこのように実に両義、多義に解せるものが多いのです。
命(ミコト)とは他からの、上からの命でもあり、それは自己本来の命でもある。使命、天命とはそういうものでしょう。
こうしたことからも、物事は単純に別々のものとして切り離すことの出来ない、相即性というものが隠れていることが示されているのでしょう。
見たままの表れた世界(うつしよ)、見えない隠れた世界(かくりよ)…分かれている、異なっているようで、それは二重写しのように重合されているのです。
一元、二元…どっちかが真実で、どっちかが幻想なのではないのです。どっちかに偏ることが、幻想なのです!…個的に分離させているのもハタラキによるものだし、ハタラキによらずば、再び一つにはならないでしょう。そこにはどんな”さかしら”も要りません。カムナガラです。

”神道はノンデュアリティ”という観方と同じように、現実とそぐわない観方に”神道は八百万の神への信仰”というものが有ります。
神社でお参りする崇敬者で「私は八百万の神を信じてます」なんて人居るんですか? 彼らはいちいちこの神社には何の神が祀られているか、などに心を留めているのでしょうか? 古代史マニアならいざ知らず…
如何なる祭神だろうと、如何に多様に分かれていようと、そこには隠れた一なる神への思念があるのではないでしょうか? 分かれとしてのその神は根源的な神とつながっている…そして又肉身をもって表れている自己と本と末の関係で一連につながっている、という思念が知らず知らず伝わっているのではないでしょうか?
我が国の寛容な精神とは、このような心性によって育まれてきたのでしょう。
神は顕現してくる、という側面もあるが、根源的な一者、神は身を隠したもうことによって、一神教に見られる相克がもたらされることが無かったのでしょう。
真のノンデュアリティはずっと隠れていて、見る事も、表すことも出来ないものなのです…。





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