人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

私の中の日本とユダヤ

2017-02-09 00:01:41 | 哲学・思想
私は宗教的な世界との関わりが多かったのですが、自分が何教徒だとかについて意識したことなどありません。学生時代の数年間を除いて。
にも拘らず、人からは勝手にレッテルを張られました。曰く大本教、神道、道教、キリスト教、宗教じゃないけど、フリーメーソン!…
道教については、私が中国人に似ているからだと言われたことがあります。ひょっとして私の前世は景教(唐の時代、中国に渡来してきたキリスト教の一派。多くは道教に同化したとも言われ、日本にも渡来して仏教、神道に影響を与えたとも言われる)徒だったのかもわかりません。(笑)
かように実にイイカゲンなのですが、強いて私の精神的な道において主流だったものとして神道的なもの、キリスト教的なものを挙げることが出来るかもしれません。
”じゃ、そのうちどっちなのか?”と言われたら、”どっちも!”としか言いようがありません。どうしたって切り離すことなど出来ないのです。
私の精神には日本的なものとユダヤ・キリスト教的なものが同居しているのです! 前者が母で後者が父みたいなものです。
つまり私は生きている日本=ユダヤ同祖論なのだ!(笑)
私は宗教にまつわる排他独善というものをとにかく生理的に受け付けません。その最たるものはキリスト教…それはユダヤ教からの遺伝と観ることも出来るでしょう。
上から目線の宣教的野心に駆られた戒律だとか、ドグマだとか、教会運営だとかの押しつけ…
こういう”がいこく”の風潮は私に固有の日本的寛容性とは相容れることが出来ません。
この国には取ってつけたような決まり、やり方など要らないのです。天地自然の道というものがあるのです。
一元でなければ、二元でなければならないとか極端な、決めつけた物言い、この大和島根には何一つ根付かないのです。
しか―し…ご注意あれ!…我がカムナガラの道にも、偏狭な観方が忍び込むこともありますぞ!
日本的寛容の道とは、それ自体が相対化してはその内実は失われてしまいます。
それは諸々の宗教宗派の一つというものでなく、垣根が無い、という事を言い表しているのです。一元的根源論にもあらず、逆説的ですが、二元的に相対化した現れをも包容してしまう普遍性というものが根底にある、という道なのです。
とはいえ、それが単なる抽象的理念に留まっていては、生きたものとはなりません。
生きたもの、一陣の風といい、放電といい、火山噴火といい、そのハタラキとは、局限的なものであり、抽象的なものではありません。
具体的ハタラキとはどっかの誰かにでなく、あなたや私という具体的な存在にハタラクのです。
それは全体的というものでなく、一なるものという他ありません。この一なるものに出会う、ハタラキに預かるには、あらゆる時、あらゆる場、あらゆる道においてで無く、その時、その場、その道においてでなければなりません! 他に代わる道も無く、他に代わる当体もありません。
その意味でこちらの意識の有り様は、一神教に通じる主一無適なものとならざるを得ません。
しかし、又ご注意あれ!…その道というものは、こちらで定め、着することは本来出来るものではありません。
それはハタラキ自らの通り道であるべきはずのものです。こちらがそれに固着する時、そのハタラキの道は閉ざされるに至るでしょう!
どこまでも、開いたものでなければ生きたものでは無くなるのです。
それは普遍へと開かれた道、寛容の道と相即されることによって、 の道となるのです。
だから…この二つは切り離すことが出来ないのです!
この意味で我が主とは、全てであり、一なる主なのです!
主と一如になれば、もはやこちらは僕では無くなり、主はミタマ親であり、親子で結ばれます。
”神の御子”キリストの道とは本来、そのムスビに導くものではなかったのではないでしょうか? それは又我がカムナガラの道でもあります。
(ああ…天のエルサレム、高天原の地に結ばれんことを…)
それは又霊と体とのムスビでもあり…もうキリが無くなるので今日はムスビとなります。
とにかく私の内部にはこういうものが根付いているのです。
シャローム、平安あれかし…同胞の皆さん…









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キリスト教の裏側

2017-02-07 16:02:54 | キリスト教関連
ずっとこのブログを読んで頂いている方なら、お分かりのように私は所謂宗教というものがキライなのです。
自分の頭の中で絶対に正しいと思い込んでいる信仰を強要してくる教師、伝道者たち…それに迎合して自ら隷属してしまう信者たち…ここにあるのは、誰の人生であるか、ということが蔑ろにされるばかりの主体性、自己信頼の欠如です…イヤですねえ…ムシズが走ります。
私はそういう世界にとっぷり浸かっていたからこそ、そう感じざるを得ないのです。
とりわけ嫌悪感を催すのは、キリスト教です。宗教のマイナス・イメージのほとんどは、ここから来るといってもいいくらいです。
直接関係の無さそうなカルト宗教でも、随所にその遺伝と思しきものが見え隠れしています。
これこそは形態的にも、精神的にも悪しき分裂を引き起こす分離宗教の典型ではないでしょうか?
しか―し…ご存じのように私の精神的歩みの中で、このキリスト教的なものとの関わりが深かったのも紛れもない事実なのです。
どうしてかと言うと、決まってるでしょ! 惹かれたから…スキだからです。
キリスト教は一番キライで一番スキな宗教なのかも知れません。
かように、私の中でキリスト教的なものを巡って相反する感情が真っ二つに割かれているのです!(分離してます)
手島先生、小池先生、ベルジャーエフ、サンダー・シング、エマーソン…影響を受けたキリスト者は数知れません。
どうして同じキリスト教でスキかキライで別れるのかと言えば、彼らは主流、正統を自認する自称キリスト教から異端視されるなど、傍系に追いやられている、ということで一応の説明は尽きます。彼らはほとんど教会の外に住していたのです。
でも、それだけの理由で理屈抜きに惹かれてしまう訳じゃありません。
私が初めてキリスト教的なものに意識的に触れたのは、原始福音の「生命の光」誌を手に取った時からなのですが、私はどうやらその時、理屈抜きに惹かれてしまうあるものを感受していたようです。表面意識では”どうもアヤシイ宗教のようだ”とか、”キリスト教はどうも偏っているようでイヤだ”といった思いがかすめているのですが、”この何となく畏敬の念をもたせ、ヒタヒタと音も無く迫って来るような感じのものは何なのだろう…”と…どうも何がしかの、その息吹に触れていたようなのでした。
これは修行、メソッド、教えを信じる事、信仰…といったプロセスを通さなくとも直接触れ得るものです。実際私はその雑誌を読んで、それを頭で理解した訳でも無く、理屈抜きに伝わってしまったようなのです。こうした事は、後にそうした集会などを通じて何度もあります。
そしてこの言葉で言い表せない”感じ”のものこそは、しばしば私が上よりの力で捉えられてしまうものとつながるのです。確かに現臨として今日まで身に覚えているものなのです。
私が初めて、強烈にそれに預かったのは、直接そのキリスト教的なものとのつながりは無かったですが、あの”感じ”というものと同質のものと言っていいでしょう。これはキリスト教的に言えば聖霊と言っていいのかもしれません。
でも、それは本来色も形も無く、何教と限定されるようなものでもありません。
しかし、この霊なるハタラキは表側のキリスト教とは別の裏側の霊統を通して伝えられてきたということは言えるでしょう。
そういうものは勿論他宗教にも伝わっているものですが、よりディナミス(力)を感じさせます。(この事がしばしば変質して狂信性を生み出す要因ともなったようです)
それは本来、修行も信仰も介さない直接的な聖霊の事態です。だからこそ私は理屈抜きに捉えられてしまうのでしょう。
その媒体となった者の多くは神秘主義者、神秘主義運動(個人を超えて集団に霊なるものが働くケース)などと呼ばれてきました。どうして多くがキリスト教的なものを通して伝えられたのかはよく分かりません。(他の例ではユダヤ教のハシディズムなどがあります)
この霊なるハタラキは、純粋に何の相対的な色が付着されることなく、伝わってこそ普遍性へと開かれ、自己の深みにも浸透していくものです。
このもの自体は相対的宗教を超えており、一つの宗教によって独占されるべきものでもないでしょう。”全てのものを照らす真の光(ヨハネ伝)”です。
キリスト教は、諸々の不調和、相克をもたらし宗教の和合ならぬ分離に加担してきました。
ベルジャーエフが言うように歴史的キリスト教は既に役目を終えてしまったようです。否、キリスト教が主導した宗教そのものがもう死に絶えてしまったのかもしれません。
宗派的キリスト教の諸々の夾雑物は取り払われ、その裏側で息づいてきた霊なるハタラキが顕わになることでしょう。
それと共に宗派的な、相対的に分離したあらゆる宗教も終わり、普遍に開かれた宗教的なものが開かれることでしょう…。










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ただ一つ生きているもの

2017-02-06 13:42:07 | 現臨、ハタラキ
私が22年もの間関西に居た期間、特に最初の3年ぐらいの間のことは、ホントに断片的にしか思い出すことが出来ません。
社会人になって、多くの人が社会機構という神サマから何かの通過儀礼を受けて、それに適応するように人格が変えられてしまうように、私もそうなる運命になるのかなあ…と思ったりしました。

”美しい夕日を見ても、感動しなくなってしまうのだろうか…
迷子の子猫が泣いていても、心が動かされなくなってしまうだろうか…
そして…あの数年前に芽生えた、生の神秘へと誘う高揚感…今はもう感じられない…
もう、二度と取り戻すことは出来ないのだろうか…”

それから一体何年経ったんだっけ?…三十数年?…”へえ…”
生まれる前のような気がします(笑)
社会生活の忙しさ、戸惑いの中で、狡猾な知恵も身に着け、悪いこと?も覚え、目先の損得に捉われるなどして、自分なりに感じている本来の私の有り様に確かに覆いが掛けられました。
この”感じ”とは、あの内的感覚というか、心身を包み、浸透してくるものと共にあるもののことです。
その時分、確かに自覚的な領域ではそれはすっかり失われていました。
ただ、精神的な探究は相変わらず、薄れる事は無かったのです。
その頃、巷では、それまで宗教的なものとして扱われていた分野に”精神世界”なる呼称が生まれ、注目されつつありました。
バグワン・S・ラジニーシ、クリシュナムルティ、グルジェフ…主として米国経由でこれらのその道のマスターたちの本が次々に翻訳され、目敏い私は、それらも押さえてはいたのです。
しかし、あの”感じ”は蘇ることは無かったのです。
僅かに、この頃その道関連の出版において私的に特筆すべきことは、手島郁郎先生の著書が続々刊行されるようになったこと、小池辰雄先生の著作集も同時期に刊行中だったことです。それらに触れる事で確かにスポット的ではありましたが、あの息吹が蘇ってくるのを覚えていました。
この事を改めて考えたことは無かったのですが…ハテ…一体、何故そうなるのでしょう?
私は生来的にクリスチャンなのだろうか?…いいや、ンな訳無い!…生理的に大キライです、アーメン連など、ムシズが走るわいっ!…
あの息吹が理屈抜きに伝わってくるのは、”オオ、ジーザス…エス様…”と言った宗教感情からは絶対に来ません! 声も無く、音も無く迫って来るものです。
理屈抜きのことは考えても分からない事とはいえ、じっくり考察せねばならないでしょう…。(断片的にこれまで書いていることではあります)
今、言える事はこういう事です。この理屈抜きに伝わってくるものにこそ、あの感じの内実があり、それは時空を超えてこの今とつながっている、という事です。だから三十年前のことが断片的なものながら鮮明に蘇ってくのです。(これはあくまで私の個人的な感覚に依るものなのです)
これはもう、この現実に臨むもの…現臨です。
それは表面的意識、生活の中では覆われ、見えなくなり、あるいは失ったり、消えたりします。
人生というものは晴れたり、曇ったり、何かが生まれ、何がが失われ、生きてるようだったり、死んでいるようだったりの繰り返しです。
しかし、空に覆いがかかり、見えなくなっても太陽自体は消えないように、表向きの変化に関わりなく、根柢にただ一つ生き続けているものがある…
皆既日食のように日が差さなくなっても、ずっとそこに有り続けているのです。
三十数年前のことは、大阪や尼崎の下町の太陽のように、うすらボンヤリして映っています。
だが、ここに現臨の息吹が蘇ると共に、にわかに六甲の山々が、その景観を表し始めるように鮮明に映り出します。
黒雲が晴れて”向こう側”が見えてくる…そこにあるのは”神の戸”か、”宝の塚”か…。












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知られざる素戔嗚の町

2017-02-05 18:57:39 | 雑記
私は36年前、大阪で社会人となった訳ですが、実はずっと兵庫県人だったのです。
大阪の人から、「アンタ家どこなん?」と訊かれると…
「尼崎です…」とバカ丁寧に答えます。
すると…「フーン…さよか…」と何やらバカにしたような表情をしながら返す…
私がその22年もの関西時代のほとんどの期間居住していたのが、大阪のすぐ西隣、この兵庫県尼崎市というところなのでした。
大阪人からはどうも軽蔑して見られているエリアなのですが、彼らには兵庫県というイメージはあまり無いのかもしれません。確かに私にもここと隣の西宮市との境を流れる武庫川を越さないと兵庫県でない、という感じはします。(同じ感想を何人もの人から聞きました)
そして電話の市外局番は、ここだけ大阪市と同じ06番! ”中途半端やなあ”(このフレーズをエビぞりになりながら連呼する芸で一時人気の有った、尼崎出身の漫才コンビが居ましたが、コンビ名をド忘れしました…)
しか―し…先程のやりとりの続きで「で、”あま”(尼崎の通称)のどこなん?」と訊かれるや、待ってましたとばかりに「阪急(これを付け加えるべし!)武庫之荘です!」と、答えると…「ほーっ…ええトコ住んでるやん…」となるのです!(クッ、クッ…いいキミ!…この微妙なニュアンスはこの近辺の人でないとピンと来ないでしょう)
ホンマに”あま”はええトコですよー! 私は最初からどこか懐かしさが有って親しみを感じました。ただしそこの北部の事ですが…
何故、ここに惹かれるのか?と言ったら、北部のあちこちを流れている中、小河川(実質はほとんど用水路)があって、恰好の散策エリアとなっていたからなのですが、私は散策しているうちにハタと気付いた事が有ります。その川の近辺に佇む小杜、神社…そのほとんどが素戔嗚(須佐能)神社だったのです!
私が長く住んでいた、先の阪急武庫之荘の特に北西にかけて、百米歩けばこの神社に突き当たるくらい随所に見かけることが出来ます。
(といっても有名な神社など一つもありません。今日は何時にもましてマイナーかつローカルな記事なのです…)
素戔嗚が祭神の神社というと、関東では、氷川神社(これは関西にはほとんど存在しません)が有名ですが、その多さはさいたま市(旧大宮、浦和)をしのいでいるかもしれません。
それにしても、尼崎一体は昔から稲作が盛んで、広く田んぼが開かれたところですが、特別農耕に関連した神でもない、素戔嗚という神がまつられる理由があるのでしょうか? 
私はこれには前記した用水の存在と関係があると思います。武庫川や猪名川(市の東部を流れる)はしばしば台風や大雨で決壊するので、中世の頃から治水工事が行われていたそうです。奈良時代の密教僧、行基は当地ー主に東部の猪名川流域ーで治水や稲田の開発に携わり、素戔嗚を祭る、富松神社、塚口神社(いずれも阪急塚口~武庫之荘間に所在)などはいずれも行基が創建したらしく、素神への崇敬も篤かったのでしょう。
素戔嗚尊の大蛇退治というのは、大蛇のように荒れ狂う川を治めたことを象徴している、という説もありますが、素神は氷川の神であり、何といっても川と密接な関わりのある神です。治水用の水路はそのまま農業用水にも用いられ、江戸時代には武庫川から六樋(ろくひ)と呼ばれる六つに枝分かれする農業用水が開かれました。
現在は六つの流れを全てを見ることは出来ませんが、一つの筋が二つになり、三つになり…と途中まではその分流して行く様子を見ることが出来ます。
上流はチョロチョロとした清流をたたえる用水路が、南下するにつれ徐々に川幅も、水量も増し(水質の悪化も)、下町の川へと変貌していく様を見ていると、そんなに距離は離れていないにも関わらず、その周辺の景観の変化ともども、時空を超えて別の街に来てしまったような錯覚を覚えます。
素神の妻神稲田姫はその名の通り、稲作と所縁が有りそうですが、高天原では乱暴狼藉を働いた素神も心も穏やかになり農耕の守り神となったのでしょう。(これらの神社はいずれも江戸時代までは素神の神仏習合に対応した牛頭天王が祭神だったそうです)
私が生まれ育った東京の町も氷川神社がアチコチに有り、近くに中小河川が流れる風情…どおりで懐かしみ、親しみが感じられる訳です。
私がミタマの親、親神、産土神というものを意識したのは、このように住んでいたところが素戔嗚の杜で囲まれていたことを知ったからなのでした。







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大阪の朝は寒かった…

2017-02-03 20:30:53 | 回想
巷では社会人としてスタートを切るのは、大概桜の咲く頃なのでしょうが、私の場合は普通人のコースを歩まされる訳も無く?一年浪人したためでもあるのですが、就職先の都合で今頃の季節だったのです。昭和56年のことです。
初めての社会人、初めての関西(スポットで来たことはあるものの)、大阪…何しろ初めて尽くしだったので、最初の一月間は疲れや慣れないことによるストレスなどで心身とも参ってしまったのを覚えています。
初出勤で大阪梅田から勤務地まで10数分で行けるところを迷って30分くらいかかってしまいました。
阪急梅田に着いて、外があまりに寒かったので、地下街に入ってしまったのが間違いだったようです。
大阪駅と梅田駅は違うのか同じなのかも分かりません。(関西の人以外にはあまりピンと来ないでしょうけど…)
こういう全く訳の分からない状況で、梅田の訳の分からない事務所にやって来たものの、何をどうしたらいいのか全く訳が分かりません。
自己紹介とか会社のレクチャーみたいのも何もありません。
驚いたことに若い事務員さん(女性は一人も無し)以外は方言?でしゃべっているではありませんか?(デパートとかじゃ標準語だぞ!)…ある上司に至ってはコテコテの河内弁丸出し…
言葉をあまり解せないより先に、その口汚さときたら…”ケツマクリ”って…フレンチカンカンかい!(後で聞いたらこの人は九州出身だといいます。初対面では”うへっ”という思いにさせられましたが、この人には結構可愛がられました。大ゲンカもしましたが…)
何もしてないのに怒られているのか、因縁をつけられているのか? というかしばらくは事務員さん以外は皆ケンカをしているように思えました。
電話が鳴り「おい、兄ちゃん、でろや!」(に、ニイちゃん!…ある夕、会社の人たちと晩飯に入った時、他の人は店員さんに馴れ馴れしく、ニイちゃんと呼んでいたのを、私は礼儀正しく”お兄さん”、お代わり…と呼んだので大爆笑が起こりました! ”お前はそっちの気があったんかい!”とね…〉の催促に出てはみたものの、先方は言葉が分からない上に、オソロしく速くまくし立てるのでチンプンカンプン…仕方なしに聞き取れた範囲で「ペラペラ…とのことです…」と告げると「な、なんやとー!」と怒られるので、もう暫く電話に出るのがイヤになってしまいました。この時は事務員さんが救世主に思えた事でした。
さかんに事務所内の会話に出てくる”みどーすじ(御堂筋)”、”よつばし(四ツ橋、この駅名はある)”とは何か?駅名か?通り名か?地下鉄の路線か?(多くはこれです)
こういう言葉、地理の不慣れという事以上に、私、周囲を困惑させたのは、当時の私は、世間的な常識が無さ過ぎた、ということに尽きます。
暫く会社の使いっパシリのようなことをさせられ、銀行に行くことが多かったのですが、それまで銀行の通帳など持ったことも無く、入出金の手続きもしたことが無かったのです。
ある日番頭?の人から現金と通帳を持たされ、「これを”ほおり”こんできてくれや!」と頼まれ、どこに”放りこんで”いいものか分からず、”投入口”を探したあげく、窓口に”エイヤッ!”と投げ捨て、事務所に帰って、「おい、通帳はどないしたん?」と訊かれたので、「放りこんできましたッ!」と平然と答える私…
使いの仕事と兼ねて、損害保険の資格を取るべく某保険会社で研修をしていたのですが、私はそれまで保険のことは、ホケン(保健)所でやるものだと真面目に思っていたのです…。
こういうようなウソのような、今でこそ笑い話になるようなネタは枚挙にいとまがありません。私はというとマジメそのもの…折目正しい標準語でオバカな事に明け暮れていたのです。
私はこのように霞を食って生きていたような、世間知らずの浮世離れした生活からいきなり、不慣れな大阪…全くエーテル的空気とは如何なる接点も無いような商魂逞しい街に放り出されてしまったのです!
も、ほんまに、ホンマに…頭がグジャグジャになりそうでしたわ!…
ところで…それまでの宗教めいた、スピめいたものへの関心は、その数か月の間に蒸発するんじゃないかと感じていましたが…
二年後の夏、あの忙しなく行き交う人混み、息が出来ないくらいの通気性の悪さ…どこにも精神の目覚めなど起きそうに無いような場所に、人生の裏側の入り口が忽然と開かれてしまうんだから、ホンマに人生てもんは分からんもんやで!…
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