スブドの創始者バパ・スブーが随所で述べていた、本来無いハズの”幻想”の霊的進化論ですが、あくまで私の想像ですが、イスラーム神秘主義スーフィーから借りたものだと思われます。
イランのイスラーム学者S.H.ナスル著「イスラームの哲学者」(岩波書店刊)に、11~12世紀頃活躍したアヴィセンナ、スフワワルディー、イブン・アラビーの三人の代表的スーフィーのことが書かれていますが、この神秘道にはこの教説は広く浸透していた、という事が伺われます。
ことにアヴィセンナの霊魂論には、鉱物、植物、動物と進化し、その低次の諸力の特徴が述べられるなどバパのそれと極めて類似した教説を見出すことが出来ます。
そして人間の段階に達すると「普遍的霊魂の新たな能力が役割を演じることになる」(同書)そうですが、ここでは人間の役割はしかし、諸々の宇宙的進化の中の一つの部分的ステップとみなされているようです。
しかしながら、私が瞠目されてしまうのは、次のイブン・アラビーの教説です。
「ロゴスそのものでもある普遍的人間は、神的名辞の全き顕現であり、神的本質により、認められたものとしての一性における宇宙の全体である」(同書)ここでは人間の本質は、宇宙進化を構成する一部位的なものからミクロコスモス(小宇宙)へと昇華しているのです。
この普遍的人間という概念からは、カバラーにおける原初的人間であり、神の似姿である”アダム・カドモン”と言われる概念、”ロゴスそのもの”としては、より我々には親近性のある神の子”キリスト”が想起されます。
又、ずっと時代は下って20世紀欧州を中心に新たな霊的進化論が台頭してきました。
神智学、人智学と呼ばれるオカルト思潮です。同時代のロシアの哲学者ベルジャーエフは、革命前に書かれた彼の初期の著作「創造の意味」(行路社刊)の中で、同国でこうした思潮がとても盛んだったことを伝えていますが、ルドルフ・シュタイナーの霊的進化論について触れています。
”人間の内に、鉱物と照応した物質体、植物と照応したエーテル体、動物と照応したアストラル体が有り、世界の進化全体が刻印されているとされる”、シュタイナーの教説に対し、彼は「進化全体に先行する原初のアダム、天上的人間(彼はここでアダム・カドモンと秘教的キリストを重ねているのです)を認めているのか十分明らかにしていない。…シュタイナーにとって人間とは畳み込み構造を有していて、世界進化の結果としてのみ出現するらしい…」(同書)と指摘しています。(神智学には確かロゴスの原初的流出についての教説も有りましたが、強調されているのは瞑想などの霊的修練の道標としての霊的進化論です)
ベルジャーエフは、このようにミクロコスモスとしての人間の真の本性について高調したのですが、それは人間の本来の有るべき姿から転落し、低次の段階への隷属状態からの回復と結びついているのです。
そしてその事は人間を取り巻く同じように生命の枯渇に瀕した万物の解放をも意味しているのです。何故ならば、内に普遍性を有したミクロコスモスとしての人間は、マクロコスモスとしての万物と照応しているからです。
前記のバパ・スブーの霊的進化論というものもおそらくは、人間の低次諸力への隷属状態からの解放という問題と結びついているのでしょう。
ここへ来ると、一見カルト色の強そうな、この教説も俄然普遍性を帯びたものに見えてきます。
しかし…私にはそこに根本的なものが欠落していたように思えてなりません。それはスーフィーで語られる”普遍的人間”…神の似姿としての人間の本来性…などで表される概念です。
私はあまり熱心にバパのトークなどを目を通していなかったのですが、そうしたことに触れたものを不勉強ながら読んだ記憶がありません。
もっとも、こういったことは哲学的思弁、観念的理解に留まるものでなく、我々の現存に開かれ、示されるべき事です。
このような神秘思想で語られる言葉というものは、”象徴言語で書かれている”ことに留意する必要が有ります。
それは言葉に言い表せないものの象徴、心象に留められてあるべき言葉だということです。
これが短絡的な素朴実在論に捉われるや、普遍世界からは浮いた想像、夢想に満ちた信仰が生まれ、それが精神的混乱を引き起こす要因となるのです。
そして、それが又人間の真の帰趨に導かれず、根本的なものが欠落したものだったら…
直接的な道においては一人一人の内に直接示されるものが全てです。
私には、それが虚空の内に自己が溶解してしまうものなのか、はたまた四大の内に分裂してしまうものなのかどうかは分かりません。
だが、そこに全き自由、普遍性、至福といったものが無く、疑念、迷い、障るもの…などが認められ、そして魂の故郷を見出さないのであれば…手放しとなって全身全霊がそこに赴く、ということはおそらく無いでしょう。
イランのイスラーム学者S.H.ナスル著「イスラームの哲学者」(岩波書店刊)に、11~12世紀頃活躍したアヴィセンナ、スフワワルディー、イブン・アラビーの三人の代表的スーフィーのことが書かれていますが、この神秘道にはこの教説は広く浸透していた、という事が伺われます。
ことにアヴィセンナの霊魂論には、鉱物、植物、動物と進化し、その低次の諸力の特徴が述べられるなどバパのそれと極めて類似した教説を見出すことが出来ます。
そして人間の段階に達すると「普遍的霊魂の新たな能力が役割を演じることになる」(同書)そうですが、ここでは人間の役割はしかし、諸々の宇宙的進化の中の一つの部分的ステップとみなされているようです。
しかしながら、私が瞠目されてしまうのは、次のイブン・アラビーの教説です。
「ロゴスそのものでもある普遍的人間は、神的名辞の全き顕現であり、神的本質により、認められたものとしての一性における宇宙の全体である」(同書)ここでは人間の本質は、宇宙進化を構成する一部位的なものからミクロコスモス(小宇宙)へと昇華しているのです。
この普遍的人間という概念からは、カバラーにおける原初的人間であり、神の似姿である”アダム・カドモン”と言われる概念、”ロゴスそのもの”としては、より我々には親近性のある神の子”キリスト”が想起されます。
又、ずっと時代は下って20世紀欧州を中心に新たな霊的進化論が台頭してきました。
神智学、人智学と呼ばれるオカルト思潮です。同時代のロシアの哲学者ベルジャーエフは、革命前に書かれた彼の初期の著作「創造の意味」(行路社刊)の中で、同国でこうした思潮がとても盛んだったことを伝えていますが、ルドルフ・シュタイナーの霊的進化論について触れています。
”人間の内に、鉱物と照応した物質体、植物と照応したエーテル体、動物と照応したアストラル体が有り、世界の進化全体が刻印されているとされる”、シュタイナーの教説に対し、彼は「進化全体に先行する原初のアダム、天上的人間(彼はここでアダム・カドモンと秘教的キリストを重ねているのです)を認めているのか十分明らかにしていない。…シュタイナーにとって人間とは畳み込み構造を有していて、世界進化の結果としてのみ出現するらしい…」(同書)と指摘しています。(神智学には確かロゴスの原初的流出についての教説も有りましたが、強調されているのは瞑想などの霊的修練の道標としての霊的進化論です)
ベルジャーエフは、このようにミクロコスモスとしての人間の真の本性について高調したのですが、それは人間の本来の有るべき姿から転落し、低次の段階への隷属状態からの回復と結びついているのです。
そしてその事は人間を取り巻く同じように生命の枯渇に瀕した万物の解放をも意味しているのです。何故ならば、内に普遍性を有したミクロコスモスとしての人間は、マクロコスモスとしての万物と照応しているからです。
前記のバパ・スブーの霊的進化論というものもおそらくは、人間の低次諸力への隷属状態からの解放という問題と結びついているのでしょう。
ここへ来ると、一見カルト色の強そうな、この教説も俄然普遍性を帯びたものに見えてきます。
しかし…私にはそこに根本的なものが欠落していたように思えてなりません。それはスーフィーで語られる”普遍的人間”…神の似姿としての人間の本来性…などで表される概念です。
私はあまり熱心にバパのトークなどを目を通していなかったのですが、そうしたことに触れたものを不勉強ながら読んだ記憶がありません。
もっとも、こういったことは哲学的思弁、観念的理解に留まるものでなく、我々の現存に開かれ、示されるべき事です。
このような神秘思想で語られる言葉というものは、”象徴言語で書かれている”ことに留意する必要が有ります。
それは言葉に言い表せないものの象徴、心象に留められてあるべき言葉だということです。
これが短絡的な素朴実在論に捉われるや、普遍世界からは浮いた想像、夢想に満ちた信仰が生まれ、それが精神的混乱を引き起こす要因となるのです。
そして、それが又人間の真の帰趨に導かれず、根本的なものが欠落したものだったら…
直接的な道においては一人一人の内に直接示されるものが全てです。
私には、それが虚空の内に自己が溶解してしまうものなのか、はたまた四大の内に分裂してしまうものなのかどうかは分かりません。
だが、そこに全き自由、普遍性、至福といったものが無く、疑念、迷い、障るもの…などが認められ、そして魂の故郷を見出さないのであれば…手放しとなって全身全霊がそこに赴く、ということはおそらく無いでしょう。