人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

霊的進化と普遍的人間

2017-03-20 00:07:01 | スピリチュアル
スブドの創始者バパ・スブーが随所で述べていた、本来無いハズの”幻想”の霊的進化論ですが、あくまで私の想像ですが、イスラーム神秘主義スーフィーから借りたものだと思われます。
イランのイスラーム学者S.H.ナスル著「イスラームの哲学者」(岩波書店刊)に、11~12世紀頃活躍したアヴィセンナ、スフワワルディー、イブン・アラビーの三人の代表的スーフィーのことが書かれていますが、この神秘道にはこの教説は広く浸透していた、という事が伺われます。
ことにアヴィセンナの霊魂論には、鉱物、植物、動物と進化し、その低次の諸力の特徴が述べられるなどバパのそれと極めて類似した教説を見出すことが出来ます。
そして人間の段階に達すると「普遍的霊魂の新たな能力が役割を演じることになる」(同書)そうですが、ここでは人間の役割はしかし、諸々の宇宙的進化の中の一つの部分的ステップとみなされているようです。
しかしながら、私が瞠目されてしまうのは、次のイブン・アラビーの教説です。
「ロゴスそのものでもある普遍的人間は、神的名辞の全き顕現であり、神的本質により、認められたものとしての一性における宇宙の全体である」(同書)ここでは人間の本質は、宇宙進化を構成する一部位的なものからミクロコスモス(小宇宙)へと昇華しているのです。
この普遍的人間という概念からは、カバラーにおける原初的人間であり、神の似姿である”アダム・カドモン”と言われる概念、”ロゴスそのもの”としては、より我々には親近性のある神の子”キリスト”が想起されます。
又、ずっと時代は下って20世紀欧州を中心に新たな霊的進化論が台頭してきました。
神智学、人智学と呼ばれるオカルト思潮です。同時代のロシアの哲学者ベルジャーエフは、革命前に書かれた彼の初期の著作「創造の意味」(行路社刊)の中で、同国でこうした思潮がとても盛んだったことを伝えていますが、ルドルフ・シュタイナーの霊的進化論について触れています。
”人間の内に、鉱物と照応した物質体、植物と照応したエーテル体、動物と照応したアストラル体が有り、世界の進化全体が刻印されているとされる”、シュタイナーの教説に対し、彼は「進化全体に先行する原初のアダム、天上的人間(彼はここでアダム・カドモンと秘教的キリストを重ねているのです)を認めているのか十分明らかにしていない。…シュタイナーにとって人間とは畳み込み構造を有していて、世界進化の結果としてのみ出現するらしい…」(同書)と指摘しています。(神智学には確かロゴスの原初的流出についての教説も有りましたが、強調されているのは瞑想などの霊的修練の道標としての霊的進化論です)
ベルジャーエフは、このようにミクロコスモスとしての人間の真の本性について高調したのですが、それは人間の本来の有るべき姿から転落し、低次の段階への隷属状態からの回復と結びついているのです。
そしてその事は人間を取り巻く同じように生命の枯渇に瀕した万物の解放をも意味しているのです。何故ならば、内に普遍性を有したミクロコスモスとしての人間は、マクロコスモスとしての万物と照応しているからです。
前記のバパ・スブーの霊的進化論というものもおそらくは、人間の低次諸力への隷属状態からの解放という問題と結びついているのでしょう。
ここへ来ると、一見カルト色の強そうな、この教説も俄然普遍性を帯びたものに見えてきます。
しかし…私にはそこに根本的なものが欠落していたように思えてなりません。それはスーフィーで語られる”普遍的人間”…神の似姿としての人間の本来性…などで表される概念です。
私はあまり熱心にバパのトークなどを目を通していなかったのですが、そうしたことに触れたものを不勉強ながら読んだ記憶がありません。
もっとも、こういったことは哲学的思弁、観念的理解に留まるものでなく、我々の現存に開かれ、示されるべき事です。
このような神秘思想で語られる言葉というものは、”象徴言語で書かれている”ことに留意する必要が有ります。
それは言葉に言い表せないものの象徴、心象に留められてあるべき言葉だということです。
これが短絡的な素朴実在論に捉われるや、普遍世界からは浮いた想像、夢想に満ちた信仰が生まれ、それが精神的混乱を引き起こす要因となるのです。
そして、それが又人間の真の帰趨に導かれず、根本的なものが欠落したものだったら…
直接的な道においては一人一人の内に直接示されるものが全てです。
私には、それが虚空の内に自己が溶解してしまうものなのか、はたまた四大の内に分裂してしまうものなのかどうかは分かりません。
だが、そこに全き自由、普遍性、至福といったものが無く、疑念、迷い、障るもの…などが認められ、そして魂の故郷を見出さないのであれば…手放しとなって全身全霊がそこに赴く、ということはおそらく無いでしょう。

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スブド❹ーカルトと普遍性ー

2017-03-19 00:37:05 | 秘教、その他団体
何年か前、アメリカのカルト的新宗教について書かれている本の中で、スブドはこの分類で扱われているのを目にしたことがあります。
関係者たちはどう思っているかはともかく、スブドはこのように見なされている向きも少なくないようです。
私自身は…ある面カルト的なものを感じています。といってもそれは組織立った所謂洗脳カルトとは全く違う意味でです。スブドは組織的には全く弱く、それらにありがちな不当な金品の要求といったことも無く、会員を無理に組織に縛りつける事も有りません。
私がカルト的に感じていることとは、自分たちだけにしか通じないような観念を信じているように見受けられる点にあります。カルトというのは広い普遍的世界から引き離され、浮いているものなのです。
これは多かれ少なかれ宗教団体には”普遍的に”内包している問題ですが、スブドは自ら”宗教では無い”と主張しているのです。
でも私はスブドとの関わりで公然と宗教を名乗る団体にも増して、その特有の観念が支配し、通気性を悪くしているのを感じた事があるのです。
私には多くのスブドの人たちは、表の意識の上では、宗教ではない何ものかを設えつつも、その何ものかに宗教を代用させていたという印象に映りました。宗教でなければ、捉われる必要も無いバパの一個人的観点からの言葉も、疑似宗教?では、金科玉条の如く信奉されてしまうのです。そして教祖に肖りたい信者が後を絶たなく現れます。
もっとも中にはそうした観念から自由な人も必ず居ると私は信じていますが(最近のことは知りません)、こういう事は甚だ迷惑な話で、彼らにはあてはまらない事であるのは言うまでもありません。

スブドにはまず自分たち(あとイスラム)にしか通じない”公用語”というのが多々有ります。例えば…”ジワ”、”ナフス”…一体何のことだかわかりますか?
これは実は(私が間違っていなければ)それぞれ”人間の本質性、本来性”、”後天的な自我性”についての表現であり、これは広く普遍的精神世界に通底した内容を示していると言えます。何も問題ないですが、何やら秘密の暗号みたいでカルトと思われかねません。
では、これはどうだろうか…”ブッダはサイト・アンガスのイキがかかっており、啓示宗教(これを”公用語”で何と言うか忘れました)の流れを汲むスブドとは相容れない…”
これが一体どういう意味が有って、何が問題であるかは、おそらく広い普遍世界では何の問題にもならないことでしょう。ただし仏教徒であるスブド会員には由々しき問題です。(バパが何かの本で述べていたこの内容については…深く探る気にもならないこともあってサッパリ分かりません。と言うか、どうでもいいです)
又、スブドで広く信じられていたのは、暗黒思想色の一際濃い、人間の魂のレベルに関する疑似?教説(スブドには教義が無いハズ)で、鉱物、植物、動物ときて4段階目でやっと人間のレベルになれるというのです。そこまで達していないのは人間モドキってことなんでしょうか? この上に3段階あり、修練により高次に上がって7段目の神のレベルに至る、というものです。
こういう教えは、イスラム神秘主義スーフィーにも、ユダヤのカバラー、あるいは近代に生まれた神智学などにも似たものを見出しますが、何かが欠落すると精神的混乱、分裂を引き起こす要因となります。
しかし、こういった特有の観念に纏わる話というものは、”受けるだけ”のラティハンの道においては何の問題にもなりません。
普遍から切り離された観念は、それを信じたい人だけが勝手に執心していればいいだけの話です。どこに行き着くのかはともかく…
ラティハンは確かにこの世の常識を超えた、奇妙で規格外の修練と言えます。
でも私はそれだけの理由でスブドをカルト団体とみなす気はありません。前述したようにカルトを支配しているのは普遍性から浮いた特有の観念だからです。そして私はそれが如何に突拍子のないものに映ろうと、ラティハンにはある普遍性をも認めています。
ここでスブドにカルト的な観方と違うものが生まれるのです。
私がずっと使っているこの普遍性という表現ですが、これを二重の意味で使っているのです。一つは普通にコモン・センスとして認識されているようなもの…もう一つはある面このコモン・センスを作り出している意識の源泉的なもの、ある面では客観的世界に映るそれとは何の関係も持たない我々の内なる普遍性のことです。これは勿論、人によって観方、感じ方というものが有ります。
しかし、それは各人が直接向き合うべき性質のものです。何か対象化された教えを奉じるということは、二義以下のものと言わねばなりません。
全ての人間にその契機が与えられている点で普遍的に開かれていると言えるでしょう。
そして、各人の内面に開示するもの…それは、それぞれの観方、感じ方に応じて等しく、言葉を超えて、普遍性に開かれているものかもしれないのです。

それにしても、私はこのように言いたい放題スブドについて書いている訳ですが、もう20数年間離れているのに何で又時に同調するような事書かされているのかしら?…これが普遍的ってことなんでしょうか?

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壁は越えるためにある

2017-03-18 00:02:07 | 詩的文章
夜も眠れないくらい悩みを抱えている時
もう、どうしたらいいのか…混乱に陥っている時
人生も世界も…こんなはずじゃなかったのに…と心底思えた時
何処にも出口が見つからない、ただ闇が覆い尽くすだけに感じられた時
手枷足枷、雁字搦め…不自由をかこっている時
それは、そこから抜け出せるという印
自分でもはやこれまで…と決めつけなければ
日は又上り、それでも地球は回る…

もし、今の居り場に安住していても、
どこかしら満たされないもの、空気の通りの悪さを感じているとしたら、
そこは安息の地では無いのかもしれない
最善のものでは無いのかもしれない
自分ではこれしかない、
こうにしかなれない、と思っていても、
神は最善のものを与えようとしているかもしれない

あの時、こうしていればよかった…
後悔先に立たず…
過去は二度と戻りゃしない
そうなる運命、宿命
前世からのカルマ…
だから今こうなっている…
だから今こうなっていることを表現している
たった今…思い出した!
その事を…
過去は二度と戻りゃしない
思われたままの決まった過去などどこにもない

僕はどこからやって来て、どこに行くのかは分からないけれど
人が言っている定め事には乗らないよ!
自分のことも分からない人間が人のことを決めたがる
そう…人間は自分のことが分からない
だから人に決めてもらって落ち着こうとする
”私はどういう人間で、どういう性格で、どういうレベルなんですか?
どういう範疇に属しているんですか?
そもそも人間という事で合っているんですか?”
全ての決め事は…
何にも決まっていない生き物の、創造、想像物…
全ての壁、決め事は、乗り越えるためにある
物では無い創造、想像そのものが乗り越える
無くてはならないものは、握っているものを手放せば見つかる
確固たるものを手放せば見つかる
否…見つけようとしたものに手を放させられる
出来あがった物にはいつも騙される…
ここに創造、想像があるのに…

何かが顕れ出ようとしている…
そこにフタがあるから…

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スブド❸ーラティハンの実際ー

2017-03-16 17:56:44 | 秘教、その他団体
スブドで行われている霊的修練ラティハンは、ただ”受けるだけ”であると言われています。
自分で受けて体験しないと分からない…これは私がしばしば触れている”直接的な道”ということです。
従ってそこには”教えも理論も無い”…実にごもっともなことです。しかしですねえ…
スブドの創始者バパ・スブーは生前、世界を股にかけて(会員たちのラティハンへの理解を深めるために)トーク(普通に講話でいいじゃないか!)を行ってきましたが、私にはバパは多分に”余計なおしゃべりをし過ぎた…”、又多くの人たちは”第二義以下に落ちてしまったものに容易く迎合して、余計な混乱を背負いこんでしまった…”という感は否めません。それはあくまで私の屈折した観方に過ぎないのかもしれませんが…この問題は改めて触れるとして…
”スブドのオープン(入門式のようなもの)。私はついに、あの至福の瞬間を取り戻す瞬間を迎えたのだ!”…なんて…
そういう風な期待というものは、三か月の待機期間中どこかへ行ってしまったのでした(笑)
”内なる生命、魂が目覚める”スブドの説明には確かにそういう事が書かれていました。又、古いスブドの文献ではそのオープンのことを”開魂(!)”と訳されていました。だが、別の説明では”人の思いを超えたヴァイブレーションに包まれ、最初は体の四肢などの動きが起こり、徐々に全身に広がり、やがて内面に…”といったような内容のものがありました。(世の中の真実というものとはこういうものです)
実際のオープンでは全くその修練の場である会館の部屋で、ただ数十分間突っ立っていただけで何も起きませんでした。
二回目の時に、数分経過したのち、”あれ、バランスを崩しそうだ”と感じた刹那、自分の意志と関係なしに歩き出したのです。こういう事は全く初めてのことなのでビックリしましたが、”ああ、成程こういうものか…”という感触を持ったのです。
ヴァイブレーション…内部感覚…これは実に数年間失われていたものでしたが、徐々に蘇って来たではありませんか!これは実に感謝せねばならない事です。
といっても、これはあくまで感覚的なことなので、ハッキリしたことは言えませんが、その数年前に芽生えたものとは微妙に違う感じもします。
ある面油断をするとバランス感覚を失う(意識が持っていかれる)ほど強力ではありますが、粗いというのか、あまり内面に深く浸透してくる感じはありません。
いずれにしてもラティハンとは、このある種の波動(ハタラキ的なもの〉の感応により、我々に元々備わっている生命力が呼び覚まされ、心身、意識の内奥にまで浸透し、本来の人間性を回復させることを目指しているものと言えるでしょう。この点で中国の気功や野口整体の活現運動などにも通じるものがあります。ただスブドの場合にはその背景にイスラームの影響があり、神へ至る道を標榜し、霊的進化という事が重要視されるのです。
これがラティハンは”受けるだけ”では済まなくなり、スブドが様々な試練に見舞われる要因となったと思われるのですが…
少なくとも私には、ラティハンは”受けるだけ”だったら別段何の問題も感じませんでした。一時期、仕事が手につかない程ハイな状態になり(別に精神的苦境になった訳じゃない〉、バランスを失いかけた事が有りましたが、その実修を通じてアブナイ、ヤバイと感じたことはほとんどありません。
ただ、そもそも私の入会の動機ともなっていたあの精神的目覚めのような事も一度もありませんでしたが…
又、そういう体験談というのも、話題自体もあまり聞いたことがありませんし、私自身封印されていた所為もあり、全く話す気が起こりませんでした。そういう土壌でなかったというべきでしょうか?
私はこのブログでしばしば”あるハタラキに捉えられて、思考も身体も機能を失い、ただ心身をそれにゆだねるしかない…”という事態のことを書いていますが、それは本質的には同じであっても、単に勝手に体が動き出すこととは、少しく違うニュアンスのものです。
前記のラティハンの説明に関して、とても誤解を受けそうな言葉が又あって、曰く”ラティハンを受けるには思考や感情や欲望がカラッポにならないとならない…”というのがあります。
”ンなもん、あーた、スブド人は皆おシャカ様か、人生がおシャカになってるでしょうよ!”
これはそれらが無くなるんじゃなくて、自分の意志で出来なくとも、自動的に抑えられるようになる事を言っているのです。それで勝手に自動運動が起こる訳ですが、止めようと思ったら自分の意志で止められます。
私が述べている事態というのはそれとは違って、抗し難くその内からの促しにゆだねざるを得なくもののことです。
それは、覚醒へと導かれるものを念頭に置いて書いているのです。
これは有体に言えば意識に浸透するかどうかの違いと言えるでしょう。
どのように導かれるかは意識の有り様というものが極めて重要な事でしょう。
スブドでも人によっては、この覚醒に導かれるケースもあるようですが、それが第一義的なものであれば、他人の出る幕でないので実際のところは分かりません。(又私は何分にもスブドを離れて26年くらいになるので現在のことは知らないのです)

何が第一義のものか? それはバパも知らない、あなたと私だけの真実…。



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スブド❷ー入門に至るまでー

2017-03-14 13:38:52 | 秘教、その他団体
スブド、ことにその修法であるラティハン(修練という意味)との関連で言えば、多くの点で私がこのブログで書いてきたことと一致するところが有るのです。それは自分の力、意志を超えたものからもたらされるものなのですから…
同会を通じて、この”人生の裏側”の真実について多くのことを学ばされたのは確かな事です。
だが、何度も触れている通り、私はそれ以前からその領域に足を踏み入れており、それが同会と関わる上での下地となっていた、というのも事実なのです。何より意識の目覚めというものにも預かっていましたし…
しかし…私が何かの運命のいたずらか、スブドの門を叩こうと決心した時、それまでのことは白紙にしようという気持ちは持っていました。(どんな道にしろ、それが新たに学ぶという態度というものだと思います)
覚醒体験については自分の意志でもそうなのですが、これが本当に不思議なことに、何者かにロックされていたように封印状態になっていたのです。
従ってその後苦楽?を共にすることになる、多くの同胞の方たちには(たった一人のアブナそうな?青年以外は)その事実はずっと秘されていたのです。
それにしても、何故慎重かつ抜け目のない?私が、既に”スブドってとこはアブナイ、ヤバイ…”と認知しているに関わらず、そこへ踏み込んでしまったのでしょうか?
それは昭和59年秋から翌年春にかけて、霊魂の暗夜にも似たネガティブな思念にずっと捉われてしまうという精神的苦境に起因していました。
そしてその出口を見出した時、電撃のように私の脳裏をよぎったのは恩寵というものでした。(多分にS.ヴェイユに感化されていた)
”私は少し前にその恩寵のハタラキを目の当たりに預かったのではないか?…しかし…”
そして、その直後スブドに関する書物が公刊されたのです。(当然のことながらそこには”よからぬ事”は書かれていません)
”スブド…忘れかけていた名前…神の恩寵…内なる生命の覚醒…”
その動機は有体に言えば、”失われた至福の回復”といったところかもしれません。だが、それだけとも思えません。
あの覚醒の預かった事というのは、誰か師に付いたという訳でも、そういう然るべき道筋に従ってそうなったという訳でも無く、あくまで自己流だったのです。(本当はこういう言い方は全く適切でなく、事実は自己流も何も私の力を超えたものによるものです)
私は自分だけの主観という事で片付けられてしまうものでなく、もっと客観に身を置いて恩寵のハタラキ、そして魂の覚醒というものが如何なるものであるかを確かめようとしていたのかもしれません。(これはある意味でその恩寵のハタラキそのものに対する、そして自己自身に対する由々しき信頼の欠如、客観的領域へと迎合してしまう、私自身の弱さの表れでもあります。この問題は私の内面の根底にあるもので、常に向き合わされるものです)
そうしたものが私の脳裏に有った上で、ぶっちゃけた事言えば、スブドにまつわるその”よからぬ事”というのは私自身が直接見て、感じたわけでは無いのです。つまり”百聞は一見に如かず”ということ…おまけに入門に際しては3か月の待機(執行猶予?)期間が設けられていて、そこに横たわるであろう悪しき実例?も観察出来ますし、ヤバイと感じたらさっさと辞めりゃあいい、という感じも掴めました。
この期間で私の決心の決め手になったくらい忘れ難い印象を持ったのは、私が最初に出会ったスブド人O氏(この人に会って説明を受けよ、との指令を受けた)との交流でした。
如何にもニコヨンいういでたちで、人生に疲れ切ったか、達観したかのような表情のO氏。
もし、私がこの最初のスブドとの”接触”において、精神世界にありがちな霊界、霊的存在、死後の世界など夢想、空想を掻き立て、先入観を植え付けるばかりの言葉を聞かされていたら、入会を思いとどまったかもしれません。(そういうのが危険の兆候なんです!)
彼からはついぞ、”霊的な…”とか”魂というのは…”といったウカレた話は聞いたことがありません。その後何度も引き合わさせられることになる、ある観念に憑かれているという印象というものが無く、ノホホンとマイペースで何とも掴みどころの無い話をしていました。
そして私は大いにこの言葉に心が動かされものです。
”わしゃあ、スブドに入ろうとするヤツの気がしれんわい…”
私はこれまで宗教の勧誘などでどれだけ”この教えが最高なんですよ…救われるんですよ…悟れるんですよ…”といった甘い言葉を警戒してきたことでしょう。逆説的ですが、私はこれによりスブドへの信頼が芽生えたと言ってもいいのです。
しかし、ああいう人はスブド人の中でも極めて特異な存在だという事を知らなかったのは迂闊な事でした…。



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