人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

夢の島

2017-07-12 16:37:00 | 人生の裏側の図書室
「人間は自分の夢によって現実をつくり出す。本当の現実などというものがあるのだろうか」
「ねえ、境さんの眼に東京が映っていたでしょう。逆さまになった東京が」
「そんなものが見えるはずないよ」
日野啓三/夢の島(講談社.文芸文庫)

先日、猛暑の中文庫本を携え、湾岸の方へ原チャリで行って来ました。
この本を読んでいるうちに、なんだか無性に行きたくなったのです。
日比谷、銀座、問題の築地を過ぎ、かちどき橋を渡ると、高層ビルが蜃気楼の中に浮かび上がるように現れ、もう一つの東京が見えてきます。
都内でも有数の人気スポットってことらしいですが、私にはほとんど馴染みがありません。
"もう一つあったのか..." 私は、東京というものは、ずっと郊外、山の手、下町しかないと思っていました。
中1の頃だったか、兄とこのエリアを訪れたことがあります。
何しに行ったのかよく思い出せません。何かの催しだったか...
ただ、隅田川の河口や東京湾の方へ行けば、水辺のオアシスのようなものが求められる、という思いがあったようです。
しかし、とにかくあまりいい思い出がなかったのか、曖昧な記憶しかないのです。
6月の終わりか、7月始めか、季節は今ごろだったのは確かです。「長崎は今日も雨だった」が流れていました。

小雨混じりで景色もボンヤリしているが、どこまで歩いても巨大コンテナ、倉庫、ゴミの山ばかり..塵埃.ばい煙、ゴミ臭が入り交じったもので息がつまる...ジトジトとにかくむし暑くてうっとおしい。ここには求める世界なんかありゃしない...二度と来るもんかi

晴海の黎明橋の水辺で暫し読書などして寛いでいましたが、あの時もおそらくこの辺りに居たと思われるのですが、どうしたってイメージが結び付きません。あのゴミの山が、この超近代的な高層建物が立ち並ぶ空間に変容しようとは...

原チャリならぬ大型バイクで主人公がひかれそうになる場面で始まる、この作品は、作者の作家人生後期に相次いで表された、一連の都市幻想を描いた小説の一つです。(85年作)
作者はずっとこの東京湾の埋め立て地に心引かれて、何度も訪れているという...その変貌していく様をつぶさに見ていたのでしょう。
私には前記の経緯もあり、その新天地開発のただ中にある時、東京を離れていたということもあり、このもう一つの東京のイメージには長い間空洞があり、何か何にもないところから突如出現した、という印象があります。
いや、有り体に言えば、私は何も見ようとはしていなかった、偏見が空洞を作っていたとも言えるのです。

"隅田川の向こうにゃ、人間は住めんi" "あの辺はゴミの山...その前は海...がらんどうばかりで大地との連繋など無いのだi...夢の島たあ、なんという有り難い名だろう..."

ここには何から何まで虚構ばかりしかないのかもわかりません。
これが、都市文化というものの行き着く先なのかもしれません。
しかし...ここには確かに私がかつて求めていたものの片鱗があります。水辺のオアシス...
自然をゴミの山で埋め尽くして築かれた人工の島から生まれた疑似自然空間...
あるいは、人工物と思われていたものは、自然のサイクルの中に組み込まれて行くのでしょうか?
これは全くかつて私が見たものが逆さまになっているようです。
かつて見たものには、蜃気楼に浮かぶような摩天楼は見えませんでしたが...
日野さんが引かれてやまなかったものとは、小説の中で逆さ吊りになったまま絶命した主人公が見ていたものものとは、この自然のものと人工のものとが、夢と現実が交錯する時空だったのでしょうか?
高層ビルの合間からこぼれる落陽の淡い光...水面に映るその合わせ鏡...
ここには失ったものへの、失われていくものへの哀切があります。
それは、都市空間ならではの幻想と哀感に満ちた心象風景なのです。

そして...昼はマネキン女、夜は暴走ライダー...謎の女のような分裂の危機を内包した二重人格の私は、何物かに吸い込まれるように、紫色に染まる西の方の帰路を目指すのでした。







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あいたい...

2017-07-10 10:17:09 | 独語
僕の中には相反する人間が同居している...

こっちのことを言ったら、あっちのことを言わないと気がすまない
こちら側から観たら、あちら側からも観てみないと...
景色は全く違って見えるもの...
"僕はこう思う、君の言い分は? な、なるほど、ごもっともだ"
何かのことを言いっぱなしにすることができない
フォローしないとならなくなる...
いつも、キメられない日々...

僕はどうしてもOO主義者にも、OO教徒にもなれない
アナーキズム? 日和見主義者?
あのね、だから...コチコチの原理主義者にもなるんだってーのi
あっちのことを"あーだ、こーだ"言ってる時は、
大体、こっちのことを言ってる...
僕の言うことは信用出来ない
僕自身何も信用していないんだろう...

この相反する者の両者、愛譲らぬ拮抗状態...
10ー9か、9ー10か...どっちかに差をつけようにも、
本当にイーブンだったらどうするんだ...
面倒臭いのはドローでいいじゃないかi
どっちが勝ったか分からんのに、雌雄が決しちゃうってのかi
カマやナベはどうする...
それとも...いっそのこと...
一発、どデカイのをお見舞して、無効試合てーのはどうだろう...
ああ...イヤだ、イヤだi
ずっと、固まるか、爆発するか...
この終わり無き戦い、誰か終りにしてくれまいかi

"無効試合、結構、タイトル預かり"

それを待っていたんだよi、コミッショナーさんi、あなたは神様か...
裁定はあなたに委ねよう...
にっちもさっちも行かない僕には、こうすることしか出来ない
どっちかでなければならない世界
こっち側しか無い世界
何かをキメたら、真っ二つの世界...
一歩踏み込もうとすると、分裂しそう...
僕はあるものに押し出されないと、前へ進めない
息をすることが出来ない...

違うものをくっつけようとしなくても、
元々一つになっているものに...
そうして...
相対するものに...あえる...











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ミタマの立て分け

2017-07-09 12:45:39 | スピリチュアル
「神も仏も鬼も邪も悪魔も、残らず自分が招くのだ。決して外から襲来するものでない。盗賊の用意に戸締まりをするよりも、心に盗賊を招かぬやうにするのが肝要だ。一切万事残らず自分の心から招くものだからなア」
(出口王仁三郎/霊界物語.第25巻.第5章)

多くの人々の関心を集める、大衆に開かれた宗教などの中心人物は、多かれ少なかれトリックスターの側面が伺われるものです。
その人物そのものにそうした意図はなくとも、その周辺には様々な思念が取り巻き、それ自体が一つの集合体となって、個々のそれに応じた因縁の魂を引き寄せ、共感、反感を交えながら各々然るべき運命生を展開していくのでしょう。
このことを端的に示されたのは、出口聖師を中心とした大本教でしょう。
"世の大立て替へ"、"人民は三分になるぞよ"の予言などで、多くの衆人を集めた大本とは、実は、"ミタマの立て替へ、立て分け"をそこに内包させた集団だったのです。
出口聖師、日月神示、エドガー.ケーシー、バシャール...今日でもこれらの予言的言辞には、多くの人の関心が集まります。
では、それが外れたら..."インチキだ...騙された..." 私も随分とそんな言葉を聞かされました。"その日はいつ来るのか?"と、眼をギラギラさせて聞きたがっていたのは誰だったのか?
予言だけじゃありません。"私の前世は?" "超能力を得る方法は?"あるいは、これが肝心、"おかげは?"...
"何のためにもならないじゃないかi バシャール、このハゲーッi"
宗教、スピ的なことに熱心だった人が、ある時から手のひらを返したように、アンチ宗教、スピになったり、無神論者になってしまう人も居ます。
このような人たちは、そもそもその宗教、スピに何を求めていたのでしょうか?
ご利益、科学的実証性、特別な力、権威...叶えられなければ、ポイ...(だから...ポイされちまう...)
中には"熱心に信仰していたら憑霊された..."と不満をぶつける人も居ます。
これは単純な問題ではないでしょうが、その人は狂信、盲信していた、という自覚があります。そこに依存的な心に依りつくものが寄ってくる、ということが伺われます。
その道に背を向けてしまう人は、一度でもその道に共感を寄せたことはなかったのでしょうか?
共感と反感というものは、これまで書いてきた通り、私の精神的な歩みにおいて、性懲りもなく繰り返して来たことで、他人事でなく、前記したような裏切られた、幻滅した気分というものも何度か味会わされたことがあります。(ほとんどは団体との関わりにまつわるものです)
しかし...全身が揺すぶられるような、自ずと涙があふれでてくるような共感というものは、どういうことがあっても覆られることがありません。
共感している自分自身に不満や疑念が向けられるだろうか?
もし、そうだとしたらそれは自己に対するばかりか、共感した物柄の向こうにある、言葉を越えたものに対する不信、裏切りというものでしょう。
信仰とか、宗教的帰依と称されるものが、なんと、自分の表層的都合、思惑、薄っぺらな観念の上滑り、頑なな自己の思念、信念といったものと結び付けられていることでしょう...。
そこには自己への、その本なる神的なものへの信は無いのです。言い換えれば主体性の欠落です。
意識的でないところに主体はありません。意識が向かうままが自己の運命生というものでしょう。
意識の有り様次第の人生、世界のゆくえ..."神に不足はあるまいぞ..."
このミタマの立て分けのいよいよ激しく、厳しくなってきているのを天象、地象、心象に強く覚えます。









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ああ...自称覚者様 i

2017-07-08 10:35:03 | スピリチュアル
宗教、スピの周辺には「段々物欲がなくなってきた...怒らなくなった...ooヘルツに達した...何か見えるようになった...瞑想中体が浮いた...ついに悟った...」と、自慢話がいっぱいです。そんなに自称覚者になりたいのでしょうか。
今日では別になりたくなくても覚醒経験者になってしまう例が頻繁に起きています。
私もそんな人間の端くれなのかもしれませんが、そういう人=覚者でないことは、このブログを丹念に読まれれば判ります。
一方、「私は何10年も信仰し続けているけど、一向に神を実感したことがない...自分の長年の努力は無駄だったのか...」
という言葉には滅多に接することはありません。自称覚者、その予備軍のエライ人たちからは絶対に聞かれないでしょう。
正直にそういう言葉を口に出来るということは、それだけでもスバラシイことだと思います。内心ではともかくなかなか言えることじゃないです。
それが、真に己の限界というものに突き当たったという、心境の表明ならなおのこと、私は敬服に値するものを感じます。こっちの方が覚者に思えてきます。皮肉で無しに...
そういう言葉に接すると、閉めきった空気の淀んだ部屋に通気孔から涼風が吹き込んだような気分になります。
そこに思いを越えたものの息吹が伝わるからでしょう。
"何十年もおんなじこと言って、やってて何やってんだ..."と私が時折心無いことを呟いたりするのは、惰性でやっているような向きに対しての、心がネジ曲がった、私からの愛ある?、あるいはその全く無い心からの皮肉なのです。
神を知ったら、悟りを開いたからエライ訳でも、そうでなければダメな訳でもないのです。
第一、そういうことはいつも言うように、個人がどうこう出来るものじゃないし、個人だけでは起こり得ません。
ノンデュアリティなどでは、よく"誰でも皆最初から悟っている、神と一つのもの..."などと言われていますが、ある意味ではその通りでしょう。
目覚めに預かるか、どうかということは、ひっきょう我々の根底にある大本の神なる命が、表層意識に知らされているか、どうかの違いなのです。
精神的目覚め、悟りとは、"すでに目覚めている、神的なものと一つである"ということに"目覚める"、ということの他には無いのではありませんかi
一生懸命信仰して、修行して、このちっぽけな自分が一歩一歩神に近づいていく、ということが如何にズレた考え方であることでしょう。
ホントの悟りとは、"いくら人間が悟ろうと、神と一つになろうと五十歩、百歩だ"ということを悟ることでしょう。(私は悟っていないので分からないが...)
"みんな悟っている"...しかし一方"誰も悟っていない"...こう思わせられるのは、上記の理由だけではありません。
みんな悟っていて何で世界は、かくも迷妄、混乱、矛盾に満ちているのかi
この世界の現実を向こうに置いて、自称覚者の自分にだけアセンションが来たかのような言辞ほどオメデタイものはありません。
"自分が悟っている"、神と一つである"と周囲に吹聴することは、如何にこうしたことの内実を歪めてしまうことかi
本当に神に近い人とは、心底己れの限界、無力、無知さを知った、という人でしょう。
ここに至るまでのその人のそれまでの人生というものは、無駄だったのでしょうか?
多分..."ムダ"でしょう...それは"無"だったのです。たとえ死の目前まで、人生が無駄だったとしても、この一瞬の無の自覚に代えられるでしょうか...
それは自己の現実に向き合うということであり、そこから自己の思いは越えられ、自己の真実が開かれるのです。
自称覚者になろうとすることは、自己の幻影を追いかけていることです。思いの中で。
目覚めとは、幻影から覚める、ということでもあります。いつも正しくないとならない、自称覚者というものは、実は目覚めるのがもっとも難しいのです。アーメン...
宗教、スピ屋、自称覚者が居なくならないと、あなたと私の真実は開かれない...。



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自己、二元、非二元

2017-07-06 16:57:14 | 哲学・思想
"覚醒、エンライトメントというものは、一個人に起こるものではない"とはいえ、顕れとしての個人にその発露があるというのも事実でしょう。
これは、隠れた大本が個的顕れを管として表出されると言ってもいいでしょう。
本というものがあれば、末もある...本末を一貫したつながりがあるのです。
今日のノンデュアリティで言う、"個人はいない"というのは、"それだけで成っている分離した個体はない"ということでしょ...紋切り型で言うからあらぬ混乱を招くのです。これを裏返せば、分離したように見える個人もある、ということです。
個我、人格...これをめぐって昔から精神的道で観方、感じ方が錯綜していますが、わかりきっていることは、今これを書いているのは私であり、読まれているのも"あなたという私"だということです。私でなければ、何だというのかi 別の何か、寄生体が成り済ましているのかi
"私がここにある、ここに生きている"この事が蔑ろにされたところに、あなたの人生も、世界も、宇宙も、そして神も存在しません。
神、神的なものの実感とは? こうしたことのこれ以上無いくらいの、強烈な実感(これは自分であって自分でない、我ならぬ我という逆説的なものです)とともにあるのです。
私、自己なるものと神なるものとは実に相即しているのです。
しかし...
神と繋がることを説いている、多くの宗教(団体)ほどこの事実に昏いものは無い、と言わねばなりませんi
神的なものとの邂逅どころか、ますます遠ざかり、見えなくさせてしまうばかりです。
神との関わりにおいて、生き、生かされていくはずの自己というものが覆い隠されてしまうからです。
そこでは、神信仰に隠れて自己への信頼というものがなおざりにされてしまうのです。
そして実際にそこで信じ、奉られているのは神そのものでなく、それに疑せられた教祖、教義、団体...この擬似的神を形成しているのは、ひっきょう、それらにまつわる思念です。
それらの決まりきった、反復されるばかりの言辞には、思念が取り巻いていて命がありません。
それは、我々の内なる実存の光に照らされてこそ生きたものとなるのです。
信者は自己に意識が向けられることなく、そこから逃避するように教団主導の所与の教義、システムに依存して行きます。
自己と神の間には、幾つもの侠雑物が設えられ、障壁となり、相即されることがありません。
生きた人格は、思念の集合体に飲み込まれ、主体的関わりが閉ざされる...個的なものは、全体的なものに圧してしまうのです。
この全体的なものは、あの神秘的つながりの擬似的写しであれ、似て非なる客体であり、その向かう先は、生きた人格にとっては、天と地ほどの相異なる事態へと導かれていきます。
生きた精神の死か、全的生への蘇り、目覚めか...

私の中で今日のノンデュアリティの台頭に対し、複雑な思いが去来しています。
宗教というものが、上記したように神と人間との関係を明かにせず、分離した状態を強めていくばかりだったこと...ノンデュアリティは、取りも直さずこのニ元性を越える事を謳っている訳ですが、この事は、確かに今日の人の思い、人の手になる中間物を越えて直接的に神的なものにつながることが出来る、という時代相というものを浮き彫りにしている、と言えるでしょう。
だが、そこには自己に向き合おうとしない精神が、自己を永遠の虚無へと消し去ってしまう、という誘惑も垣間見ることが出来ます。
個我、自己というものは成程問題だらけのものです。悪の元凶なのかもしれない...かように人が背け、無きものにしようとせずにおれないものなのかもしれない...
だが、神的なものはこの問題の、悪の物種を通して示現してくるのですi
人間の人格こそ神の仮面であり、そこに神の種が隠されているのですi 自己を否定することは神の否定を意味しているのです...。




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