悟り、解脱...
しばしば、業生を超えることとして語られますが、そういうことは一個人でどうなるという問題ではないことは、いつも書いているようにその感がいよいよ強くなってきています。
玉城康四郎先生は、禅定に入られ、形なき命、ダンマが心身を貫き、浸透しつつも、何度も業の我塊にぶち当たり、元の木阿弥になる、ということを繰り返していた、ことを何度も述べております。
ダンマは業熟体ー限りない過去からの生きとし生けるもの、ありとあらゆるものとの連なりーに顕わになる...もう、このこと自体が一個人でどうなる問題でないことを明らかにしているのです。
"一コの人間が居る訳ではない、それはつながりにおいてある"、ということは精神のあらゆる道で言われていることです。
しかし、玉城先生の理解では、それは業というものと結びつけられていたのです。
叶うことは出来ませんでしたが、先生に是非接見して、お聞きしたかったことは、"この内なる根源的共同態というものは、業的な側面しか無いのですか?" ということでした。
私は、この内なるつながりー普遍調和世界ーを垣間見ることに預かったことがありましたが、その時実感されたことは、その業的なものを想起される、諸々の絡まり、纏わりから解放された、そこに壁となって障るもの、滞るものが何も無い、というものでした。(それが、元の木阿弥になるのは、全く宿業みたいです)
何がそう感じさせているのか、言葉の限界を恐れずに言えば、その普遍的つながりに連なっていることが自覚されたからです。
つながりというと、そういう網の目みたいなものをイメージしますが、それはどこまでも無限に拡がっている...故に普ねく、隔てが無いのです。
つまり、私はこのつながりと切り離されていないからこそ自由であったのですi
逆に言えば、このつながり無くして自由というものは無い、分からないのです。
ここで見えてくることは、このつながりというものは、先の業熟体というものの裏返しだということです。
人が中々覚醒に預かることが出来ないのは、業というものを背負わされているからでしょう。
それから自由になろう、業生から抜け出そうと日夜もがいているのが、衆生のすがたのようです。
否応なしに我々に、くんずほぐれずのし掛かる、この忌まわしき絡まり...どこまでも影のようにまとわりつくこの"つながり"...
しかし...我々は"つながり"無しには、そもそも目覚めることは不可能であり、自由に預かることも出来ないのですi
この辺りのことをブッダは、"縁起"というもので説かれたのではないでしょうか?
生きとし生けるもの、ありとあらゆるものは縁によってなり、そこから離れることは出来ない...
業というものは自体、超えようとしたり、無くそうとしても元々、その目論みそのものが自己のよるべを失い、自壊へとつながってしまう結果となってしまうものなのではありませんか?
業生というものは、それ自体は超えることも、無くすことも出来ない...超えたり、消滅したりするものがあるとすれば、"業想念"というものでしょう。
業想念の最たるものとは、自分の思いで業生を超えようとしたり、無くしたり、その超えた境地に到達しようとするような想いではないでしょうか?
"自我、業というものは自分でどうこうすることが出来る"...この迷いから"それは、出来ないものだった..."と気付くことが、業想念から離れることにつながるのではないでしょうか?
そこから離れた時、忌まわしきものと思われた業が、祝福された縁へと化して行く...かもしれません。
エラそうなこと言っていて、業生の身の私にはよく分かりません。
人生には、否応なしに重ーくのし掛かってくるものがある...しかし、春ともなれば又、否応なしに身も心もその訪れに、歓喜を覚えずにおれない...。
しばしば、業生を超えることとして語られますが、そういうことは一個人でどうなるという問題ではないことは、いつも書いているようにその感がいよいよ強くなってきています。
玉城康四郎先生は、禅定に入られ、形なき命、ダンマが心身を貫き、浸透しつつも、何度も業の我塊にぶち当たり、元の木阿弥になる、ということを繰り返していた、ことを何度も述べております。
ダンマは業熟体ー限りない過去からの生きとし生けるもの、ありとあらゆるものとの連なりーに顕わになる...もう、このこと自体が一個人でどうなる問題でないことを明らかにしているのです。
"一コの人間が居る訳ではない、それはつながりにおいてある"、ということは精神のあらゆる道で言われていることです。
しかし、玉城先生の理解では、それは業というものと結びつけられていたのです。
叶うことは出来ませんでしたが、先生に是非接見して、お聞きしたかったことは、"この内なる根源的共同態というものは、業的な側面しか無いのですか?" ということでした。
私は、この内なるつながりー普遍調和世界ーを垣間見ることに預かったことがありましたが、その時実感されたことは、その業的なものを想起される、諸々の絡まり、纏わりから解放された、そこに壁となって障るもの、滞るものが何も無い、というものでした。(それが、元の木阿弥になるのは、全く宿業みたいです)
何がそう感じさせているのか、言葉の限界を恐れずに言えば、その普遍的つながりに連なっていることが自覚されたからです。
つながりというと、そういう網の目みたいなものをイメージしますが、それはどこまでも無限に拡がっている...故に普ねく、隔てが無いのです。
つまり、私はこのつながりと切り離されていないからこそ自由であったのですi
逆に言えば、このつながり無くして自由というものは無い、分からないのです。
ここで見えてくることは、このつながりというものは、先の業熟体というものの裏返しだということです。
人が中々覚醒に預かることが出来ないのは、業というものを背負わされているからでしょう。
それから自由になろう、業生から抜け出そうと日夜もがいているのが、衆生のすがたのようです。
否応なしに我々に、くんずほぐれずのし掛かる、この忌まわしき絡まり...どこまでも影のようにまとわりつくこの"つながり"...
しかし...我々は"つながり"無しには、そもそも目覚めることは不可能であり、自由に預かることも出来ないのですi
この辺りのことをブッダは、"縁起"というもので説かれたのではないでしょうか?
生きとし生けるもの、ありとあらゆるものは縁によってなり、そこから離れることは出来ない...
業というものは自体、超えようとしたり、無くそうとしても元々、その目論みそのものが自己のよるべを失い、自壊へとつながってしまう結果となってしまうものなのではありませんか?
業生というものは、それ自体は超えることも、無くすことも出来ない...超えたり、消滅したりするものがあるとすれば、"業想念"というものでしょう。
業想念の最たるものとは、自分の思いで業生を超えようとしたり、無くしたり、その超えた境地に到達しようとするような想いではないでしょうか?
"自我、業というものは自分でどうこうすることが出来る"...この迷いから"それは、出来ないものだった..."と気付くことが、業想念から離れることにつながるのではないでしょうか?
そこから離れた時、忌まわしきものと思われた業が、祝福された縁へと化して行く...かもしれません。
エラそうなこと言っていて、業生の身の私にはよく分かりません。
人生には、否応なしに重ーくのし掛かってくるものがある...しかし、春ともなれば又、否応なしに身も心もその訪れに、歓喜を覚えずにおれない...。