人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

業と縁

2018-03-18 12:31:13 | 仏教関連
悟り、解脱...
しばしば、業生を超えることとして語られますが、そういうことは一個人でどうなるという問題ではないことは、いつも書いているようにその感がいよいよ強くなってきています。
玉城康四郎先生は、禅定に入られ、形なき命、ダンマが心身を貫き、浸透しつつも、何度も業の我塊にぶち当たり、元の木阿弥になる、ということを繰り返していた、ことを何度も述べております。
ダンマは業熟体ー限りない過去からの生きとし生けるもの、ありとあらゆるものとの連なりーに顕わになる...もう、このこと自体が一個人でどうなる問題でないことを明らかにしているのです。
"一コの人間が居る訳ではない、それはつながりにおいてある"、ということは精神のあらゆる道で言われていることです。
しかし、玉城先生の理解では、それは業というものと結びつけられていたのです。
叶うことは出来ませんでしたが、先生に是非接見して、お聞きしたかったことは、"この内なる根源的共同態というものは、業的な側面しか無いのですか?" ということでした。
私は、この内なるつながりー普遍調和世界ーを垣間見ることに預かったことがありましたが、その時実感されたことは、その業的なものを想起される、諸々の絡まり、纏わりから解放された、そこに壁となって障るもの、滞るものが何も無い、というものでした。(それが、元の木阿弥になるのは、全く宿業みたいです)
何がそう感じさせているのか、言葉の限界を恐れずに言えば、その普遍的つながりに連なっていることが自覚されたからです。
つながりというと、そういう網の目みたいなものをイメージしますが、それはどこまでも無限に拡がっている...故に普ねく、隔てが無いのです。
つまり、私はこのつながりと切り離されていないからこそ自由であったのですi
逆に言えば、このつながり無くして自由というものは無い、分からないのです。
ここで見えてくることは、このつながりというものは、先の業熟体というものの裏返しだということです。
人が中々覚醒に預かることが出来ないのは、業というものを背負わされているからでしょう。
それから自由になろう、業生から抜け出そうと日夜もがいているのが、衆生のすがたのようです。
否応なしに我々に、くんずほぐれずのし掛かる、この忌まわしき絡まり...どこまでも影のようにまとわりつくこの"つながり"...
しかし...我々は"つながり"無しには、そもそも目覚めることは不可能であり、自由に預かることも出来ないのですi
この辺りのことをブッダは、"縁起"というもので説かれたのではないでしょうか?
生きとし生けるもの、ありとあらゆるものは縁によってなり、そこから離れることは出来ない...
業というものは自体、超えようとしたり、無くそうとしても元々、その目論みそのものが自己のよるべを失い、自壊へとつながってしまう結果となってしまうものなのではありませんか?
業生というものは、それ自体は超えることも、無くすことも出来ない...超えたり、消滅したりするものがあるとすれば、"業想念"というものでしょう。
業想念の最たるものとは、自分の思いで業生を超えようとしたり、無くしたり、その超えた境地に到達しようとするような想いではないでしょうか?
"自我、業というものは自分でどうこうすることが出来る"...この迷いから"それは、出来ないものだった..."と気付くことが、業想念から離れることにつながるのではないでしょうか?
そこから離れた時、忌まわしきものと思われた業が、祝福された縁へと化して行く...かもしれません。
エラそうなこと言っていて、業生の身の私にはよく分かりません。
人生には、否応なしに重ーくのし掛かってくるものがある...しかし、春ともなれば又、否応なしに身も心もその訪れに、歓喜を覚えずにおれない...。


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天国へは独りでは入れない

2018-03-17 16:28:39 | スピリチュアル
近年、日本でも注目されている「奇跡講座」という、スピ系の指導体系に「天国へは独りでは入れない」という言葉があります。
私はあまり関心がないので("毎日の日課のようなもの、やらなければならんのかなあ"と、講座と聞いただけで堅苦しさを覚えてしまいます)、それは、その詳しい意味は分からないのですが、この体系自体が単独の人間のみによっては、生み出されなかったことと関連付けられているようです。
そもそもこの天国と言われるもので想起されるもの...普遍、調和世界であれ、神の国であれ、自分独りだけの世界というものを想像出来るでしょうか? 
自分しか居なくて普遍も調和もあったものじゃないですね。
それは世界、国...何らかの他とあるものを共有しているスペースなのです。
その門は確かに文字通り、自分以外の他者との共同によってしか開かれないものと私も強く感じています。その意味しているものは、一様ではないですが...
特にそれが、この見たままの現実世界に開かれた場合、その時空間を共有しているパートナー(二人以上)の存在抜きにはあり得ません。
(自分以外に一人さえ居れば、この地上に天国、神の国が...少なくともその雛形は実現するのですi)
その相手は必ずしも、その幸福な時空の共有を自覚しているとは限らないものですが、その開示は、どちらかからの一方通行でない、自他を一つにハタラクものによるものと言えるでしょう。
では、何らかの理由で物理的に単独であること(私など大体そのクチ)を余儀なくされているような人には、その天国的なものは開かれないのでしょうか?
そんなことはないでしょう。まず、その他者とは人間とは限りません。私は野良猫"ペロちゃん"と幸福な時空間を共有したことがあります。
そして...これは前記したものとは、違う意味で、多くの精神的目覚めに預かった人が"そんなことない"ことに同調するであろうことですが、物理的に単独でもそういうことは起きることです。
でも、私はその場合においても、他者との共同無くしては開かれず、その至福の共有も無いと思います。
見えざる導師の協力無くしてどうして、それに預かることなど出来得ようかi
それは自己の力を超えたハタラキなのだから、当然なのは言うまでも無いですが、私は又、上から協力を求められていることも感じています。
これはその現実世界への応現と関係していると思われますが、見えざる領域と見える領域との協調、呼応関係によって起きるものと言えるでしょう。
そこに最近の悟り系教師が、"全体しかない"と説いていることに違和感を感じてしまうのです。
何らかの関係性が欠落していては、何も起きず、始まらず、開かれないのです。
又、あるメソッドに従い、それに乗っ取って修行した結果それに預かった、というムキもあるでしょうが、そうしたものがある因子にはなり得たとしても、決定的な契機は自己を超えた他者との関わりにあるものでしょう。
(それで、ある意識の変容のようなことがあったとしても、至福の共有とは全く異質のものでしょう)
私は上記で、天国的時空間のことを一般に客観的、主観的とされる二つの観点で述べてみましたが、それらにどっちかが現実で、どっちかが幻想と決めつけることは出来ないでしょう。
自己に帰結してしまう主観あるいは、自己から離れた客観的世界しかない、という偏った観方自体が幻想と言うべきです。
この二つのことは元々切り離されないものであり、天国的な世界の実現とは、この主客の分離からの回復に他ならないでしょう。
このこと自体が、見えないものと、見えるものとの共同ということなのでしょう。




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万人のため、そして何人のためでもなく

2018-03-15 17:27:18 | 独語
「万人のための、そして何人のためでもない一冊の書」

ニーチェの「ツアラトウストラ」のサブタイトルだって...
万人のことなど誰が知るだろう...
万人は超人を目指しているのだろうか? 超人でない、その他大勢をよそ目に...
他に抜きん出た人間、究極の真理を知り、その境地にいる人間、業生を超越した人間、
神のようになったつもりの人間...
特別でありたい人間...特別であることで、自己を他と分かちて、
アッピールせずにおれない人間...
皆が皆こんなだったら...世の中凡庸な、特別そうな人間で溢れかえる
ああ...何という救いようの無い凡庸さだろう...
凡庸であることに幸福などないi
そうである、こうでなければならない人間になど...

最近急に春めいてきて、毎朝決まって6時過ぎにウグイスが鳴いている
何を目指すでも、目論むでもなく、ただ鳴いているだけ...
特別なものであろうとしなくとも、ウグイスはただウグイスをしている
スットンキョウに鳴いてるただのウグイス...
春が来た、朝が来た、日が昇る...
「ホー、ホケキョ」のさえずりに否応なんてない
私は私をしたいi ...何が本当の私なのかは分からないけれど...
ただ、好きなこと...惹かれてやまないことをしたい
他におもねる、他に押し付けるでもなく...
そうでなければ...私は私でなくなる...

私は書きたいことを書きたいi
誰が読むのかは知らないけれど...
何人のためでもなく、私のために...
凡庸な人間には、何にも引っ掛からないだろうし、何の役にも立たないだろう...
私のために...
それは万人に開かれている...特別であろうとしない万人
万人は万人とも、その"わたし"を生きているのではないか?
"わたし"を生きることは、すべてを生きる、すべてが生きることなのではないのか?
万人が万人、共有している幸福とは、何と他の追従を許さず、
ユニークで刺激的なのだろう...
だから...私は誰のためでもなく、それを共有したい
万人が春の訪れのようにそうしているように...














 
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この人を見るな

2018-03-13 17:51:19 | 人生の裏側の図書室
「我らはツアラトウストラを信じるとお前たちは言うのだな? だがツアラトウストラに何ほどのことがあるか?...さあ、私はお前たちに命令する。私を失え、そしてお前たち自身を見つけ出せ、と。お前たちがみな私を拒みおおせた時、その時初めて、私はお前たちの所へと帰って行こう...」(F.ニーチェ「この人を見よ」/岩波文庫、ちくま学芸文庫他)

ニーチェは何度となく読んできましたが、この自叙伝は初めてでした。これは最初に読むべきであったか、最後にとっておくべきだったか...まあ、これまで私はこの何かと誤解の多い預言者のさほど熱心な読者ではなかったのは確かです。
しかし、これはとにかく文句なく面白いi
「何故、私はこんなに賢明なのか...何故、こんなに良い本を書くのか...」
もう、目次を見ただけで吹き出してしまいました。決して笑えるような本ではないですが、こうした経験は、約30年前、ドストエフスキーの「地下生活者の手記」を読んで以来かと思います。
人間、あまりにも自分と同じ像を目の当たりにすると笑うしかないのかもしれません。
一読して分かるように、ニーチェはドストエフスキーに負けず劣らず我意の強い人間です。
だが...本当に我の強い人間で、なおかつその弱点を自覚している人間は、こんなにもあからさまな、誇大な自己賛美の表明などするものでしょうか?(少なくとも私はそうしない?)「地下生活者」とか、ラスコーリニコフ、イワン.カラマーゾフなどの自己の分身に託するものではないですか?
ニーチェには、その託身される対象として「ツアラトウストラ」が与えられていたのではなかったか?
もう、ここにはあのニヒリズムの権化のご託宣も、ニーチェその人のそれも区別がつきません。そこにこの書が世に出た直後、彼の精神が昏やみに陥ってしまった要因があったのでしょうか?
ニーチェは、妹のエリザベートの目論見から自分の意向に反して、偶像に祭り上げられてしまうことになりましたが、これが不幸にもヒトラー=ナチズムに歪曲され、利用されてしまいました。
「私はドイツ人というこの種族には我慢出来ない。どうしてもうまが合わない」
「私の性分は誰にでも柔和で親切であることをのぞむー私には差別を立てない一つの権利があるー」
彼には国家主義も民族主義も、権力の行使とも無縁だったのです。一時ワーグナーに心酔していましたが、ドイツ的なものから離れることから訣別したのにも関わらず...こんなヒドイ歪曲はありません。
彼の説く超人とは、誰に対してもフツーに接することの出来る人間の逆説にも思えます。
推測ですが、彼はその自身の実像が歪められることを見越して、この書で逆説的に虚像を演じていたのではなかったでしょうか?
ただ、随所にその制御しきれない、我意を表さずにおれない血の衝動というものも濃厚に感じられはしますが...私にもそういう血が流れていて、どうもハートの裏側の辺りがムズムズしてきそうですi

ああ、私も慎みを弁えた人間の仮面をかなぐり捨てて、「凡庸であることは、罪だi 悪だi、"そうであること"など十字架にかけて超人に生まれ変われi」と叫んでみたいi
この人という人間に託してでも...
しかし、"この人"というのは..."居ないi、見えないi"

行く果ては自壊する運命しかない、我意の強い人間は、"この人"という見える人間によっては決して救われないのです。
この人を見てはいけないんです。
自己の対象としてこの人を偶像にしてしまうか、自己を偶像にしてしまうでしょう。
それでも"この人"を求め、すがり続けなくてはならない...そこで救世主なる"この人"は...
"見えない虚像"として臨んでくるのです。
このニーチェその人の言葉として書かれた本には、見える"この人"とその向こうにあるものとが交錯しています。
ニーチェは、精神のカオスの中で何を見たのでしょうか?
答えは黙されたままだったのでしょうか?...
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書かれざる律法

2018-03-11 12:37:52 | 求道、探究
現臨、ハタラキ、見えざる導師、ミタマ親、真我、我が主...何度も言っているように、このブログで度々出てくるこれらのワードはすべて言葉に言い表せない、あるものとのつながりを伝えているのです。
愛、平安、幸福といった抽象的な言葉にしても、それはこのもの無しではもたらされないのです。
こういう掴みどころの無い、もって回った表現をしているのは、到底一つの属性で切り取って表すことが不可能なためでもあるのですが、言葉、意味に囚われることで生きたものではなくなってしまうからです。
我が主からの書かれざる律法の一つにこうあります。(あと一つくらいしか無かったかな?)
"我を確たるもので固めるなかれ..."
これは、通常思われているような戒めのようなものでなく、内面に愛と平安のうちに自ずとそう誘われていくようなものです。
その意味では、従わなければならない律法より根本的なものです。
これらのワードから、裏と表、見えるものと見えないもの、神的なものと人間的なもの、個的なものと、普遍的なもの等々の結び目のようなものが心象に浮かんできます。もう、このもの自体が私であって、すべてのものと言ってもいいくらいです。
当然のことながら、このものは一元的なものと二元的なものとをつないでいるものらしく、この二元世界への顕現に向かっての、ある衝迫させるものを覚え、いつも拙いながらも書き表している次第なのです。

最近は日に日にこのものと共にある、一体感といったものが強くなってきたように感ずるのですが、一つ自覚していることは、この"切り離されていない"という感じというものは、例えばモロに、如何にもな、"私は神と一つ、私は即神なり"といった命題を懸命に信じ込もうとしても、中々そんな感じには導かれない、ということです。(少なくとも私の場合は...)
信仰題目みたいなものを信じ込もうとすることで、強まってくるのはその思いばかりであり、かえってその顕わになるものに覆いをかけ、それと共に自我性を強めることにもなりかねません。
個人というものも、神的なものへの帰依という二元的有り様を認めようとしない、極端な非二元論からは自己はずっと虚空に浮いたままか、溶け去ってしまいそうです。
逆説的なことですが、この神的なものを他者として認識すること、そこから帰依心が生まれることで、"このものと共にある"感じがもたらされるのです。
考えてみれば、それがブログが始まった当初から言っていた"意識が向かう、向かわせられる"ということなのです。
他者だから"向かう、赴く、導かれる..."ということがあるのです。
絶対他者には、こちらの精神的有り様はただ、敬虔にならざるを得ません。これは、どうしたってそうなることなのであって、倫理とか信仰道徳とかのことにしては自分自身の実存的な事態が誤魔化されてしまいます。
敬虔であることは、絶対他者の前に思われた自己が退くということ...そこから思いを超えた神的なもの、大本からの自己が他者性を破って自他を一つに顕わとなるのです。
私は又何度も特別な修行はしてこなかったけれども、祈りによって導かれたと言ってきました。
祈りとは託身...託すべき他者無しにはそうなり得ません。託身とは明け渡し...そこで初めて自己と他者は一つとなるのです。
限界ある自己は決して、思いを超えたものに取って代わることは出来ません。
我が主の書かれざる律法の第一...
"我の前に汝立つなかれ、我、汝の前に立つまでは"
無くてはならないものー自分自身、すべてのものーを失わないため...
春風一陣...いよいよ現存ありやかとなる...
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