人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

真っ直ぐな心

2018-06-19 17:50:48 | 求道、探究
昨日の大阪方面の地震、被害に遭われた方にはお見舞い申し上げます。
同方面に長く居たことがあるので、他人事に思えません。
高槻には東京に帰るまでの二年間、ほぼ毎月行っていましたが、あの辺りが震源に近く、被害が大きかったようですね。(ムチャクチャ旨い日本蕎麦屋さんがあったんですが...)
ああした自然災害に見舞われると、時間が止まったようになってしまいます。
冷静な判断も出来なくなってしまい勝ちになりますが、心を落ち着けて自分に出来ることはやってみましょう。月並みなことですけど...

スピ界隈ではよく"そのままでいい"、"ありのままの状況、自分の状態を受け入れよう"という言葉が聞かれたりしますが、現実の処々の場面にはにはそぐわない、当てはまらないものがあるのは言うまでもありません。
突発的なことが起きた時など、そんな心持など吹っ飛んでしまうことでしょう。
"そのままでいい"というのは、心を落ち着けて、そういう心持になるべく、意識をどうにかしようと目論んでいる?というシチュエーションですね。
"神はウソ、誤魔化し、雑じり気の無い、真っ直ぐな心を良しとされる...だからそういう余計な思いから離れて、排して真っ直ぐな心持にならねば..."って...
"そおおじゃあないだろーっi"
それこそがウソ、誤魔化し、はからい、ってもんじゃないですかi
そうしないと神は許してくれないのですか?
大体、そのようなはからいから、そういうごリッパな心境になれた試しでも有るんですか?
人生のある局面には、自分がどういう心持ちだろうと、そのままがありのままに照らし出される、恩寵の光に与るという事態というものがあります。
それが人生の裏側に踏み入れるという事態なのですが、神の御前に立つということは、その現実をおいては無いのです。
"そのままでいい"も何も、そのままでしか有り様がありません。
これは、すべての時間が止まった瞬間というものを思い描いてみればいいのです。
どんな誤魔化しも、はからいもそこに付け加えることは出来ません。
別の言い方をすれば、それが疑うことが出来ないということです。
(こういうことは、ものの喩えで言っているのではありませんi)
そこではすべてを見透す目に、何の覆いも無くこちらのすべては顕わにされるだけです。
そこで神の御前に真っ直ぐな自分にされるのです。
こちら側には"心を、何を、どうにかしよう"と、拠り所にするものは何も無い..."、どんなにダメでも、迷っていても、そのままで思いを超えた恩寵に寄り頼むしかない...恩寵とは為そうと志そうとしなくとも、自ずからそう為さしめられることです。
そのままの真っ直ぐなままであること...それが神的なハタラキに意識が向けられるということです。
自分の限界内で、自分の心をどうにかしようと何十年も取り組んでいる人は、向こう何十年もそうし続けるのでしょうか?
時間が止まってしまっても?...
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意識と現存

2018-06-17 11:11:12 | 意識、照明
"意識が世界を作っている...意識したものだけが存在している..."
と、言うようなことが哲学やスピ界隈で説かれたりします。
世界、宇宙、歴史...自己のことでさえ、意識したものが映し出されている部分が大きいのは確かなことでしょう。
しかし、それらが本当にリアルに、疑いのないものとして映し出しているとは言えないでしょう。
思考や感情などのバイアスがかかっているためです。
それは人それぞれの文字通り思い思いのものなので、何が真実かなど分かる訳ありません。
かように意識というのは、思考などとゴッチャなものとして理解されているのです。
こういうところから、"あなたの今の現実はあなたの意識が作り出しているのだから、あなたの意識を変えればいいんです"、あるいは"その意識を無くせばいいんです"...なんてことが平然と説かれたりしているのです。"出来るんなら、やってみろi"としか言いようがありません。
こういう目論みというのは意識でなく、意念であり、間違いなく思考に基づいているのです。
意識はコントロール出来るものと"考えられている"訳です。
私がよく意識が向く、とか向いちゃうとか言っているものは、こういうことでは全くありません。
意念、思考の根っこにあるもので、それをどうにかしようとすることは、この大地を自分の精神力で動かそうとするようなことです。
ただ、微妙な言い回しになりますが、意識的になる(これが向くというようなこと)ことは可能でしょう。
そこから取っ掛かりとして、意念的なものに依拠しながらも、それから離れ、超えられる道が開かれるのです。
それは取りも直さず思考以前にある、大空、大地、大気の存在にも似た、その思われた以上に深く、広がった意識に気付くということに他なりません。意識的になるとは、気付かされることと言ってもいいでしょう。
何故、その意識が向かうということが可能なのかと言うと、大地が既にあるように、現存しているものがあるからです。
それは"かくあれかし"と思う以前にあったのですi このものが意識を惹き付けるとも、それが向いたところに現存する...否していたとも言えるでしょう。
これは意識と現存するものは、分かち難く結び付いていることを物語っています。
だから、人為的にハタラキかけなくとも、自ずからそーなってしまうのでしょう。
そして、最も愛してやまないものというものが何であれ、何人にとっても、この思いを超えて現存するものでないものは無いでしょう。
"あなたの現実はあなたの意識が作り出している"という、所謂意識万能論は"現実"にそぐわないものがあります。
"イヤーな現実は意識しないで、ハッピーな現実を意識しましょう"なんて、"そうなれ!"という思念にトラワレ、そうならなかったら"ヤッパリ、そうならない"現実にまつわる思念にトラワレてしまうばかりじゃないですか?
現実はすべて意識が作り出している訳じゃないし、作り出そうとすること自体が意念によるものです。
又、その現実は意識の(人為的なものでない)有り様によって、どのようにも変わって行くものでしょう。
置かれた現実はどうあれ、最高、最愛のものに出会ったら、そっちがリアルなものになってしまうでしょう。
現存するもの、それが意識に臨んでくる現臨は、意識と共にある...意識されたところにそのものはあり、そのものに意識が向けられる...これこそ疑うことの出来ないリアルな現実では無いでしょうか?



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もう、何も考えられない

2018-06-16 11:29:44 | 雑感
"自分にとって、最も愛してやまない、惹かれてやまないものって何だろう..."
って、ずっと考えてる人、もしかして居たりして...
それはごく自然に浮かんだらいい訳でして、ムリになさる必要は無いですよ。念のため。
自分に自ずとそう感じれられるものがあればいいんです。
まあ、今は何も浮かばなくとも、そう感じたことを思い浮かべるのはいいかもしれません。
そうするといつの間にか、そういう考え事から離れて、昔あったことが今の今、そういうことになる...かもしれない。
そうなってみて、如何にそれまで"これが最高のものだ"、"信じなければ、こうでなければならない"と、人の、世の中の声におもねり、振り回され、支配されていたかが分かるのです。
思いを超えるということは、感じているままに何も考えられない、ということですね。これって"思考停止"ってことになるのかしら?
ついでに触れますけど、世間でも使われ、私も時折そう使っているこの言葉の意味合いは、例えば宗教の狂信者とかオカルトなどにハマって居るような場合のことで、これはある観念に強固に自分の思考が依存、隷属してしまうことで、思考のトラワレそのものであり、全く真逆ともとれることです。
この辺りが曖昧になってるために、どっかで"思考停止はとかく問題になるけど、たまには何も考えないでボーッとするのも悪くないですよ..."なんて、土台がズレた話も出てきちゃうのです。
このニ様の心性に顕著に分かたれ、表されることは主体性の有る無しでしょう。
一体、自分がサイコーに、幸福に感じられずして、どこにそんなものがあるのかi
"教えを、神を信じなければなりません"...自分に感じれられない神が何になるだろうかi "思考停止地獄"は、生きた神の通路を閉ざしてしまいます。自他の平安の道も閉ざされます。
イミテーションでない平安は、もう何も考えられなくなった時自ずと開かれます。
思考のトラワレもその時開放されます。リアルな疑うことの出来ない平安の前に、見せかけの、人がそう言っている平安は手放さざるを得なくなるからです。
それでもアレコレ考えてしまうかもしれません。何がリアルなものなのだろうか? その意味は? それが分かったとして何になるだろうか? 目的は?...捉えよう、掴もうとしてしまうのです。
意味も、目的もありません。"OOのために"と、自分自身と切り離された何ものかを追い求めていっても、捉えることが出来ません。
捉えたと思って掴んだ途端、別のものにスリ代わる...生きたものでなくなります。
本当に愛してやまない、惹かれてやまないものは、捉えられたら分かります。もう、とっくにそうなっているかもしれない。忘れてない?
思い出の一ページに過ぎないと思っていたものにも、そのヨミガエリから忘れられた自分自身が復活するかもしれません。
僅かな通路を通してさえも、ずっと自分の内に息づいていたものが、フタ開けしてくる...
あの高揚感、幸福感、自他一体感...もう、何も考えられない、何も言えない...
意味も目的も無い、真の平和がそこにある...






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それでも真実を追い求める

2018-06-13 17:17:17 | 意識、照明
ドラマ「相棒」の右京さんは、真実を追求してやむことがありません。
私情を交えることなく、どこまでも妥協することなく追求して行きます。とっくに時効になってる事件でさえも...
一体何が彼をそこまで掻き立てるのでしょうか? 警察官としての使命感だけでは無さそうです。
現実においても、科学的真理の研究者は客観的真理に、哲学者は理念上の真理の追求に、時間を惜しまず没頭している者も居ることでしょう。
それが解明されたとしても、絶対的なものだという保証などありません。
別のところで新たな真実が明かされて、覆ることだってあります。
それでも彼らは本当のことを追及してやまない...何の得があって? それで果たして幸福なのか?
彼らの脳裏には"この世に絶対的真理などないi"ということは、それなりに認識されているのでしょうが、どこかにある"絶対に"そこにギリギリまで迫れる一点というものが見据えられているのでは無いでしょうか?
それは精根傾けて考え抜き、その遂行を重ねることの限界点なのかも分かりません。
そっから先は神の領域なのでしょうか? 絶対なるものへの飽くなき挑戦...(そこへたどり着くまでは安易な妥協、迎合など決して許されないのですよッi...ブルブルブルッ...血管が切れそう)

絶対的な人間など居ないのだから、絶対に真実のことが何なのか分かろうハズも無いのでしょうが、そこから想起されてくるものは、何となく掠めて来ないでしょうか?
その一つは、"疑うことの出来ない"というものではないでしょうか? 疑うことが出来ないものは、"そーなっている"としか言いようがありません。否定することも出来ないのです!
疑うことも、否定することも当たり前のように、"そーなっている"この世では、あまり実感が湧かないかもしれませんが...それは"すべてが肯定、ポジティブ、ハッピーi..."と浮かれてるようなことを思い浮かべられるでしょうか?
それは確かに幸福なことには違いないのでしょうが、私には限りなく"すべては疑い、否定、無意味、幸せも何んも無い..."ことの裏返しのように感じられて仕方ありません。
受かれてる裏では、ネガティブなことが"否定されている"のではないか?
つまり、肯定と否定があるということ自体、相対的なことである訳で絶対的なものとは言えないでしょう。
私は今、こんな風に肯定的なこと、否定的なことを思い描いて言っているのですが、本当に疑うことが出来ないことは、もはや思うことが出来ません。思う以前にそーなっているんですから...
それは思うことも、行うことも、意志することも出来ない...すべての"DO"は終わるのです。ゆだねるしか出来ません。
真理、真実を求めてやまない人というのは、意識する、しないに関わらずこのポイントに向けての"DO SOMETHING"に駈られるものがあるようです。
そして、その先には、この世では与ることの出来ないような、絶対的幸福とも言うべきものが...あるのかもしれません。
でなきゃ、いつまでも"細かいことが気になって仕方が無い悪いクセ"などどうでもいいから、行きつけの料亭で、つかの間の幸福に浸ってたらいいってもんじゃないかi
又そうでなきゃ...ホントにヒマなんだろう...。





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万人による、万人のための祈り②

2018-06-11 12:53:47 | 祈りと瞑想
神や聖者の名を称えたり、念じたりする修法というのは、念仏に限らず、古くから様々な宗教で伝えられてきました。
例えば、イスラム神秘主義のスーフィーでは、アッラーの名、東方正教会ではイエス、神道のある一派では天照大御神、中国の宗教結社道院では根元神、至聖先天老祖...その他それぞれ聖なる名を唱え続ける修法が伝えられているのです。
これは信仰対象とされているものが、直ちに自己と一体たらんとする道として表されていると見ることが出来るでしょう。
所謂悟り、救済、安心立命ということも、すべてその中に含まれている訳です。(この意味をジックリ味わってみて下さい。悟りや救いの道というのがあって、それと別に神仏と一体になる道というのがあると思いますか?)
これって言うのは...あらゆる精神的な道に内包されている、その基本にあるものであり、奥義なのでは無いでしょうか?
信仰や修行や儀式というものがある...それは安心というものに与りたいがためでしょう。だが、そこにそれをもたらすもの、その源というもの、帰着点というものが無ければ一体何になるでしょうか?
聖なる名と言えど、それは言葉に表されたコトバに過ぎないのかもしれない...だが、"名は体を表す"...そこに象徴された、名状し難い、"実見されるもの"に与る試みなのです。
そこに内実が失われれば、形骸化してしまうのは言うまでもありません。
しかし..."いや、一寸待てよ、聖なるものというのなら分かるけど、何かのキャラクターとかペットとかでもいい、とか言うのは何だi ケシカランi"と感じてる人もおられるかもしれません。
このブログの読者は、ピューリタンばかりでも無さそう?ですが、私は別に上記のような宗教的修法をして下さい、と言っている訳では無いのです。だから対象は、そういうものでなくても何でもいいでしょ?
これは、"最も愛してやまないもの"というのが、ミソなのです。
例えば自分が何かの宗教を奉じていて、その神を一生懸命崇拝しているとして、"そうしていることで本当に自分の魂が惹き付けられ、揺さぶられることがあるんですか?"と問われたとしたら..."皆信じてるから...信じなければ救われない、と教えられているから"ということならば、それはあなたの魂の声では無いということなのです。
思いを超えた恩寵は、嘘、偽りのない、マッスグな心、直心を通じて伝わるのです。
私は、野良ネコ"ペロちゃん"との触れあいを通して、その思いを超えたものに捉えられたことがあるのです。
ジワーッと、そこにすべてを包み込む慈愛のようなものが、ネコを媒体として呼び起こされたのを感じたのです。
これは、対象それ自体にそういう力があるというより、自他を一つにして顕現してくる現臨のハタラキと言っていいでしょう。
ただ、そこに生きたものが顕わになり、愛、平安をもたらすものがもたらされる...それが肝心なのです。
本当に聖なるものとは、あなたが思い描いているものとは限りません。リアルに臨んでくるものの前には聖も俗も善も悪も無いのです。
本当に最高のものとは、あなたの思いを超えているのです。
愛、平安...そこら中に溢れている、ありふれた言葉ですね。しかし、本当にそういうものに出くわしたら思いも寄らないものだ、ということが分かります。何よりもそれは自ずとそーなってしまうことなのだから...
"最も愛してやまないもの"は、もしかしたら探しても見つからないかもしれません。自他一つのものの一方ばかりに目が向けられていたら...
それも、これも今の時点で嘘でない、"最も...なもの"に意識を向け、敬うことから開かれるのでしょう。

一昨日の夜、例年より早い蒸し暑さの残る部屋で、"もう、信じる宗教はオシマイだなあ"とその末期症状の様に思いを巡らしているうち、"思われたものでない神的なものは、万人一人一人に開かれ、還元されなければならない"、といったところから昨日書いたようなことが閃いたのでした。すると、"ゴーッ"という地響きのような音と共に突風が吹き荒れたのでした。
そして、私は何かがハートの辺りから込み上げてきて、全心身を包み込むのを感じたのでした。

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