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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

フランケンシュタインの覚醒(前)

2019-07-21 12:21:16 | 創作
今、私の目の前には、半分生きていて、半分死んでいるような、つまり仮死状態の怪物ーいや、どうしても私には一人の人格を持った人間と呼びたい念を捨てきれないのだがーが横たわっている。
偉大な科学者であった父の遺産を受け継ぐべく、この寒村へやってきたのだが、本当の遺産とはどうやら"これ"だったようだ。
そして父の意思は、"世にもおぞましい怪物を造った男"という汚名を、その研究の改良によって、晴らして欲しいということにあったようなのだ。
しかし、この怪物が目覚めた時、それはこの寒村に悪夢の再現をもたらすことになるという一抹の不安も過る...怪物の覚醒、それは善か悪か...その答えは数分後に明らかになるだろう...

すべては、あの優秀ではあるが、その背骨と同様、心の捻れた助手イゴールの手違いから始まった。
こともあろうに、優生者の脳と異常者の脳とを取り違えてしまったのだ。
そして父たちは、又取り返しのつかない手違いを犯してしまう...まともな人格を備えているか、どうかも分からない怪物を父、フランケンシュタインの城の外へ逃がしてしまったのだ。
おそらくは、自分が何のために生きているのか分からない人造人間と、生きることに懸命で、当たり前のことながら死にたくない人間たちとの遭遇は、お互い思い描いていることを超えた事態を引き起こし、次々と悲劇を生んだ。
そして恐怖と憎悪に取りつかれ、ヒートした村人たちは、ついに怪物を城に追い込み、数発のダイナマイトで、城もろとも吹っ飛ばしてしまった...と誰しもが思ったのだが...
しかし、その瓦礫と化した城から、その怪物の死体は、その"部品"ですらも発見されなかったのである。
ことの真相は、秘密の地下室に潜んでいたイゴールが、崩れたブロック壁の下敷きになって息絶え絶えの怪物をそこに引き入れ、隠していたのだ。
やがて、父フランケンシュタイン博士は、世にもおぞましい怪物を世に出してしまった苦悩、連続殺人に荷担したことによる罪責を問われたことに疲れ、有罪判決を受けてすぐ、実刑をみないうちに病死。イゴールだけ縛り首となる...
しかし、彼も又怪物だった...。背骨ばかりか首までねじ曲げられても、尚生きていたのである。"死刑執行は二度は行われない"という決まりにより恩赦となった。
そして、いつしか村中に"怪物はまだ生きている"という噂が広まり出したのである。
というのも、博士やイゴールに対して有罪の主張をした陪審員たちが次々と姿を消してゆく、という怪事件が起こったからである。
あの怪物と同じく死体はどこにも見つからなかった。
この謎の答えは、廃墟と化した城の傍らで、グツグツと煮えたぎる硫黄泉にあった。
復讐の念に憑かれたイゴールが、陪審員たちを手に掛け、完全犯罪を目論んで遺体をこの"ゲヘンナの火"に投げ込んでいたのである。彼は又、まだ怪物への恐怖心が覚めきっていない村人たちに、さも怪物はまだ生きているかのように思わせ、彼に罪を着せようと、有ること無きことを吹き込んでいたのだった。
400度に達するという、その硫黄の熱では骨まで溶けて跡形も残らないだろう。
しかし、誰しもすべてを見透すお天道様の目が光っているもの...イゴールの最後の犯行は、正にその証拠隠滅のため、曲がった肩に遺体をかついで、熱い蒸気の立ち込める方に向かっているところを、この村に来て間もない私によって目撃されてしまったのだ。怪人イゴールに再び"縛り首の奇跡"は、起こらなかった...
この不気味な復讐鬼の犯行を暴いたという評判のお陰で、私に着せられた"怪物を造った男の息子"、という村民が抱いている悪いイメージは大分払拭されたようだ。
そして今、秘密の地下室で、このものを言わぬ怪物と向き合っている訳である。
私には、この怪物がそう呼ばれない、人格を備えた一人間とみなされるようになる、という自信がいささかある。
それは亡き父が真っ先に対処すべきことだったはずである。
それは肝心の脳の再移植である。そして今度こそは上手く行くはずだ。紛れもない、そんじゃそこらじゃお目にかかれない天才の脳みそと移し代えたのである。
そしてもう"フランケンシュタインは、怪物の代名詞"とは、二度と言わせないつもりだ。
その脳こそは、父フランケンシュタイン博士その人のものなのだから...

(続)
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いくら考えても分からない

2019-07-20 04:09:57 | 独語
生きる意味とは?
生存し続けること?
食べてゆくことは大変だ...生きるために戦ってるよう...
その上、社会で生きることは、イロイロ摩擦も起きて、これ又戦いの連続...
何故、毎日毎日、精神も肉体も磨り減らしながら生きて行かなきゃならないのだろう...
何故、望んでもいないような苦難を背負って生きて行かなきゃならないのだろう...
生きる目的は分からずとも、誰しもが確実に行き着くゴールってものがある...
それは死i
我々は、死ぬために生きているのだろうか?
それとも、ただどっかから聞こえてくる、"死ぬなi 生きよi"という声に従っているだけなのだろうか?
考えれば、考えるほどイヤになってくる...
生きる意味、目的は?
そう考えている、"なーんも無い"ようなことにしか行き着きそうにない...

私は何で生きているのか分からない
考えている私だけからは...
私は生まれて来ようとして、ここに居る訳じゃない
"あなたは前世でそう望んで生まれてきたのですi"...
"自殺した人間は地獄でずっと苦しみ続けるのですi"...
そんな"ここに生きてない"言葉と心中(信従)するつもりなどないi
世の中がいかに"死ぬなi 生きよi"と言おうが、世の中と心中する気もない...
しかし...
ただ...ここに"生きている"..."イキしている"
生きる意味や目的を考えてる以前に...
空も大地も草花も動物も..."生きている"
生きているもの共々とで生きている...
自分が生きる、考える...それが人生のすべてじゃない
どうしたって分からないのだi
夕日が何故、かくも美しいのか...
親を求めている子猫の鳴き声がかくも切ないのか...
理由は無くとも、喜びが、悲しみが込み上げて来るのか...
分からない...
たとえ、究極の真理が分かったとしても...
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忘れられないことだってある

2019-07-17 11:48:01 | 雑感
失恋、別離、死別...大切な人との別れ...
紛失、盗難...大切なものの喪失...

大切なものを失うことは、苦しく、悲しく、つらいことですね。
こんな時、周囲の人はよく、こう言います。
「忘れなさい、忘れることだよi」
こういう言葉が、どれだけ私に重ーくのしかかってきたことか...
"忘れられないi...忘れようとすると、どんどん思いがずるずると、深く引き摺られてゆく...あんたの頭と僕の頭を取り替えられないものだろうか?"
つらい、忘れたい...しかし、私の奥では、"忘れたくない!"と言っている声があるようだ...

宗教的な世界では、何時までも失った大切な人、ものを忘れず、思い続けていることを執着と捉えるものです。
確かに、こういう思いは"重し"となって心を苛みます。愛着を持った人に対しては、時に極端な例で、ストーカーのように歪んだ心情となって、負担をかけてしまうことにもなります。
自他の心を苛むことは、忘れるに越したことはありません。分かっちゃいるんだが...忘れられないことだってある...
"失くしてみて、初めてその大切さが分かる"とよく言います。
このことをじーっと、じーんと噛みしめてみて下さい。
今、あなたはその愛すべき人、ものと直接接してはいません。でも、そこで直接関わっていた時とは、その時には感じられなかった、異なる思いに浸らされているのを感じたことはありませんか? 
それはその愛する対象のみから来るのではない...対象から切り離してみても、尚そこに感じられるはずのものです。
あなたのハートに尋ねてみて下さい。
そして、そこにはある意味、ある感じでの悲しみというものはあるけれど(この愛にある悲しみは、必ずしも思いを苛むものではありません)...苦しみは感じられない...執着というたぎるような思いからも解放されているのではないでしょうか? それはあの無限定の、神的な愛にも通うものがありはしないだろうか?
もし、この感じが分かるならば、執着的な思いも、この愛に化されることもあるということが知られるはずです。
このことを私の心を苛む、"忘れなさいi"という声に向けてみて...忘れようとする必要があるでしょうか?
否、忘れること、手放すことは出来ないのではありませんか? 元々あるもの、与えられているものは、無くす必要など無いのです。
そして、苦しみが離れてゆく、化してゆく...
私はこのことを、野良ネコの"ペロちゃん"を失ったことで示されたのです。
俗っぽい例では、好きなタレントに夢中になってて、ある時スキャンダルや結婚報道などを知って、"ずきゅーん...ああ、世界は終わったi"ということもあるかもしれません。
"ははは...居るんだなあ、妄想世界の住人てのがi...バカめi"
何を隠そう...私がそうなのだi(笑)
しかし、愛にあることに卑俗なことも、崇高なことも関係無いのです。"じーん、ああ..."これが肝心なのです。

ああ...純アリスさん逝くi あんまり有名じゃなかったけど、高1の時、私が初めて熱を上げたタレントさんでした...忘れていた?、一寸待って下さい、"忘れてませんi"

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秘密の祈り

2019-07-15 11:10:40 | 祈りと瞑想
私はこのブログで随分と、私の隠されていた秘密を表に顕わにしてきました。
しかし...まだまだ隠されていることはタンマリあるのです。(笑)
私はこういう風に、"出してみよかな、出るかな...いや、出なんだ"...と、謎の覆面レスラーになった気分で、楽しくていつも書いてたりしているのです。
でもねえ...これはどうかなあ?...こんなん書いたらオカシク思われないかな...と、一寸躊躇しつつも、休日だし"お筆先"のように書いちゃってます。

私は実は、毎朝習慣的なものですけど「世界平和の祈り」に則った祈りをしています。別におかしかないですね。
"神様有り難うございます"と、まあフツーなことです。
しかし、そこに昔、知り合いだった人懐こい野良ネコの名前やら、意中だった異性の名前が出てきたりするのです。
これはその習慣的でない祈りの時にも出てきたりするのです。オカシイかな?
誤解しないでほしいのですが、別にそのネコや異性を神様に仕立ててる訳ではありません。
これが秘密めいたことのようですが、それらが祈りの対象になっている、というよりも、こう赴くというのは、その交流があった時に感じられた、"愛にある"ことに意識が向けられる、というところにあります。具体的に感じられたことなので、想起しやすいのです。
その愛というのは、神的な愛というものとは違い、多分に人間的な愛情と言われるものと結び付くものですが、でもその"愛そのものにある"というところで、根底にあるものは同じだと思うのです。
普通、そのような具象を伴った存在に対しては、その対象にばかり意識が向けられるものですが、"愛にある"状態というのは、それだけからはけっして生まれません。
それを感じている私の中からも現れているのです。それは原初的に私に備わっているもので、その具体的な存在が媒体となって、発現されると言ってもいいでしょう。
このことは、形なき命、神的なものについてもより一層言えることで、そうした関係が思われた愛情というものを超えて、神的愛と一つにもなり得るのです。愛は分けることが出来ないのです。
それはいつもここにある。
思われたそうした関係に、こういうものが根付くことで、それは変わったものになる...かもしれません。

人は言う..."神は愛である"と...けれど、それは人がそう言っているだけで、神にホントは愛など無いのかもしれません。
人は得てして、自分が思っていることを神に投影するものですしね。
神は又、人間を守ったり、救ったりしないのかもしれません。
でも、私はこうした言葉をひっくり返して言うことも出来ます。
どうしようもなく、涙があふれるほどの愛というものを、世の中の一体どこに感じられるだろうか?
これといった、運命を改善されるような、どういう因果か、そういう出来事が起こらなくとも、形なき、惹かれてやまないものに意識が向いただけで、どうしようもない苦境から救われた、苦しみから逃れることが出来た...どうしてそうなるのだろうか?
私はこう言い表すことしか出来ません。

"神的なものにあることが、愛にあることである。それが救いである"...と。
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一の如し

2019-07-14 11:36:54 | 現臨、ハタラキ
今日書くことは、例によって?読まれる方には、チンプンカンプンなことかもしれませんが、私の内面では、じっつにリアルな、ありやかなものとしてあることなのです。
私はしばしば"神(的なもの)と共にある"ことを強調しておりますが、こういう言葉はともすると、自分があって、神(的なもの)がある、という、二元的な在り方のイメージを与えてしまうように感じてはおります。
それだけで何か問題になる訳ではないと思うのですが、私が理解しているこの二元的在り方の問題とは、例えば自分自身と、信仰とか修行、社会活動等々のことが分離してしまい、それら自体が一人歩きしてしまうような事態のことです。
こうした精神の有り様では、人間の内面生活の根底となるべき神との関わりからしてそのようになってしまい、当然の如く神と信仰、修行なども分離してしまい、信仰のための信仰、修行のための修行に明け暮れてしまい勝ちになるのです。
そうなると、神は自分軸とならず、自分の向こうに観ているようで、やたらと抽象的な宗教やスピ関係の教えに依存しているかと思ったら、一転して、"神は人間を救ってくれるはずなのに、一向に人類は救われないではないか?"といった疑念からか、神の否定、無神論に傾いてしまったりするのです。
その一方では、一元的な、"私は神、一者と一つである"式の教えもあります。
もし、これがそうした観念からでなく、現実に自分がそうなってしまったのなら、もう何をか況んや、オシマイでしょう。
"自分は無い、すべて無い"...すべてそれで完結します。後は何も無しi
"ノンデュアリティの生き方というのは..."って、何でそんなユーレイ人間が物を言うのかi
そういう教えをいくら信じたってそうなりません。逆に言えば、そうならなければ信じようとするでしょう。
"自分は居ない、神も居ない"...すべてそれで完結した...ことにする訳です。
これは実は、"二元的な非二元的教え"の観念を介在させていることに他ならず、この点では二元的な教えと形は違えど同じと言わねばならないでしょう。
"神と共にある"というのは、現臨と言うも、聖霊と言うも、そういう具体的なハタラキ的なものが伴っているということで、それを信従する必要はないのです。
ただ、これを言い表すことが、実に微妙なこととて、私の足りない頭では難しいのです。
これは、"自分があって、神的なものがある"、という、二元的、分離的なことを言っている訳ではありません。
かと言って"自分と神は一つである"と、そのある側面では言い得ても、"私は神である"などとは、どうしても言えないものがあります。
それでは、"ここに私と神的なものとをつなげているものがある"、ということが浮いてしまう感じがしてしまうのです。
"現臨、ハタラキがある"と言ってもいいくらいなのですが...これをズバッと言い表す言葉というのは、今まで我々の世界ではほとんど無かったようです。
ともかくも、私のことも、神的なことも、"このものにあって"アリアリと感じられるのです。
それは一元でも二元でもなく、主観でも客観でもない...
仏教的に、"一の如し"、"神と私は一如(みたいなもの)"、と言い表すしかないかもしれません。(この"如"というのは実に仏陀、仏教的表現だと思います)
それは真実か?..."真の如し"、真如。
あなた自身が知ろうとするのでなく、感じてもらうしかありません。


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