人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

意識と実在するもの

2019-09-21 10:55:22 | 意識、照明
スピ界隈などで、"あなたが意識したものが実在する"という、意識万能論というのがあります。
マイナスを意識したら、マイナスの現象を引き寄せるとか、そういう法則と結びつけて語られるようですね。
今、テレビをつけっぱなしにして、これを書いていますが、書くことに意識が向いていてテレビを意識していなければ、それはあっても無いみたいなものです。
私の意識には無いということですね。だけど番組で気になる女性タレントが出てきたら、目の前にその画面が出現しますよ。当たり前の話ですけど。
テレビは実在するのか、幻想なのか? なーんてマジメこいて言ってること自体、実在感がありません。
しかし、これは、実在というものをどう感じているかという問題と関わるものであり、それで万能の如くすべてに言い得るものでは勿論ありませんが、私は"意識したものが実在する"ということは強く感じています。
この実在感たるや、見ることも、触ることも出来ませんが、そういうモノとして感じることの比ではないほど、ダイレクトに、強く感じさせられるのです。
これは正に感じるっきゃないことなので、実証しようがありません。
"そんな主観的なもの頼りになるかi"、という向きもあるかもしれませんが、私は逆に何がどう実在性を証明されようと、"あなた自身がそう感じないものに一体どこに実在感、リアリティというものがあるかi"、と言いたいです。
これは意識の在り方というものが極めて重要ではありますが、"私が意識する"ことが必ずしも先行する訳ではありません。
これは...実在、実存、リアリティ在らしめるものが臨むということなのです。いつも言っていることですが、それが"現臨"ということです。
いつも同じこと言っているみたいですが、いつもそれは現在、現存しているのですi
そこで実感されるリアリティというものは、"意識が現臨にある"ことと言ってもいいでしょう。それは、こちらが"意識すること"によってもたらされる訳ではないのです。
むしろ意志的に意識しようとすると、原初的な純粋意識から離れ、そこから意念、思念的な働きにおもねることになり、その状態を失うことにもなりかねません。
現臨とは、我々の内なる意識と共にあるのです。そこに私は思いを超えた、神的なものを感じずにおれません。
ラマナ.マハルシは、"神、真我のみが実在する"と言いました。
五井先生は、"神のみが実在するのであり、それ以外は消えてゆく姿なのです"と言いました。
なるほど、私が現臨にある時、見ているもの、見ずして感じているものすべてがそれと共にあるように感じれられます。
だからと言って、うっとおしい人間とか忌まわしいモノとか、見えるもの自体が消えてゆく訳じゃありません。
それは、それまで、うっとおしい、忌まわしいと思われたものが、違うように感じられてくる、"化してゆく"ということがあるのです。
これは"何が実在しているのか"、という感じ方を言っている訳ですが、私が意識しようがしまいがあるものはきっとあるのでしょう。
しかし、より根本的に、自然(じねん)的に感じられるのものというのは、自明なことではないでしょうか?
そこに愛、平安が感じられるのであれば...
そういう状態が、"我々のごく自然な有り様なのである"という、ラマナの言葉が頷かれるばかりです。


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何もしないことの裏側

2019-09-18 11:52:22 | 祈りと瞑想
スピ界隈ことにノンデュアリティの界隈で、しばしば人々を混乱に陥れてしまう要因は、ある特殊な意識状態などで起きるようなことを、さもごく普通に生活している場においても起き得るかのように説かれることにあると思います。
よく考えてみれば、これは実に当たり前のことで、我々はプラーナを摂取しているだけでは、ちっとも腹の足しにならないのであります。
それを"これが究極の真理ですi、真理はこれっきゃありませんi"、なんて誇張したりするからその界隈には難民で溢れたりするのでしょう。
意識がサマーディのような状態に、普段より明晰になっていて、思考マインドが薄れている状態では、確かに"個人という私、考えたり、行為をしている私は居ない"という感じになったりします。
ということは、何らかのその状態を目指しての瞑想や、形をもった祈りというのは、その状態にあっては、"それをしているあなたは居ない"ので、落ちてしまうということです。
しかし、ノンデュアリティの教師の中には、これに関してそういう修行的なアプローチというものを否定してしまう人も居るのです。
私も時に否定的なことを言ったりしますが、それはあくまで上記のような状態を念頭に入れてのことなのです。
これはそういうものに限らず、ある観念を信じることー"信仰"についても言えることですが、否定しているというよりは、現実問題としてそういう状況下では、意志想念に則ったアプローチに取り組むことは不可能であることを言っているのです。

"じんじんと、心身に思いを超えたものの息吹が浸透してくる...私の中も外もそれに満ちてくる...
自ずから、ことは行為者無しに行われる...この見えない導きにゆだねるのみ..."

この自然(じねん)なる事態に、人為的に付け加えることは一切無用なのですi...いいや、それは見えないバリアに阻まれて出来得ないのですi...
無理なことをやろうとするときっと無理が生じるでしょう。クンダリーニとかを自分の意志で操作しようとする人間の気が知れませんi
で、そうでない場合は別に"やり方"を否定する理由など無いのです。
やりたい人は大いにやったらいいでしょうi もっとも、手放しでそういうこと言うのは無責任というものですけど...
それで、ああいう状態になるのか、ヘンなことになるのかは知らないのですi 私はそういう決まった方法に則っていないので...
ただ、手放しで言えることは、手放しになる事態になったら、それに任すっきゃないということです。
こんな訳で、私はある意味ノンデュアリティ指向なものでして、"特定の教えもメソッドも要らない...あなたは既に悟って居る"のですから、何もしなくていいんですよ、そのままでいいんですよ...
なんて..."言える訳ないだろーっi それはそうなった時に言えっつーのi"
"何もしない、そのままでいい"、ということには、ちゃんと裏があるのです。
これは、いつも言うように、そうあらしめるものの思し召しなのです。そのものあってのものなのです。
どうやったら、そうなるか分からないのはこれが大きな理由なのです。
といって、ボケーッとしてたって、与れるもんですかi 鳥のフンが落ちてくるくらいでしょう。
最愛のものを恋慕う気持ち...ポンと意識すれば、自ずと向かわされる...
これはやっぱり形なき、祈りと瞑想の裏側と言うべきか?
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神が見そなわす

2019-09-17 11:55:16 | 意識、照明
皆さんは神というと、どういう感じを持たれるでしょうか?
まあ、この問は、そこそこ神を信じている人向きなのですが...
もし、それが常に我々人間の生き方、あり方をつねに見ているとしたら...
それが、絶対的な宇宙の法みたいなものを司っていて、それに準じた正しい生き方、あり方を示し、それに悖る、外れた者は罰する権威を持っている...裁く神のように映るとしたら...
その場合、見られているというより監視されているように感じてくるでしょう。
ということは、どっかでそこから隠れよう、逃れようという心魂があるってことになるんじゃないでしょうか?
もう、そこに永遠の罰が想定されているようなものです。こういう思いは、神を信じているという人に圧倒的に多いと思われます。
いや、ホントに不思議なことですi 神を信じていて...いやそれ故に救われないとはi...神を否定する者よりも重ーく心を苛み続けているのです。
でも、ご安心をi...それで救われないことが確定している訳じゃなく、そういうことはただそう思われているだけなのです。
("思われていること"というのは、救いがあるのか、無いのかどっちか分かりません)
神をどう感じているか...それはひっきょう自分自身をどう感じているかということにつながるでしょう。
神は正しいものを善しとし、誤てるものを裁くものと感じているということは、ありのままの、裸の自分を見ようとしない、認めようとしないということです。
ということは、神を見ようとしない(見られようとしない)、認めないということでしょう。自分を許していないことは、神を許していないということと同じなのです。
いつまでも、そんな他人行儀に、神を遠ざけたままだと、こんな風に神が迫って来るかもしれませんぞi(最後の審判は近いそうですから)

"見なさいi...お前の現前をi...お前が見ることが出来ないのなら、私が見させてあげよう...お前のすべてをi..."

あなたはすべて見透かされている...どこにも隠れるところ、逃れるところとて無いのですi
いいものも、悪いものもすべて...人前では泣いたり、怒ったり弱味を見せてはいけないと、能面みたいな顔して感情を押し殺して、悟った風に取り繕って...そういう余所行きの仮面はそこでは通用しません。
もう、すべてあけっぴろげi...神の裁きと思われたもので、とっくに許されていたではないかi 否、それは神の方が許しをこうているようではないかi
念仏の仏教などでは"安心"などと言います。
安心というのは、"見そなわれている"というところから来るのでしょう。こんな安心なことは無いのです。
"ゆだねる、全託"ということも、そういうものにあって、そうならざるを得なくなるということです。
人生でもっとも、大切な会わなければならない人は、そこにちゃんと居るi
見えないあなたが見えるあなたを映し出している...
勿論人生には意のままにならないこと、苦しみ、悲しみは付き物です。
でも、たとえ境遇がどうあれ、それらが思われたように、そのまま覆い被さったままということにはならないでしょう。
神が見そなわし給うから...それで幸福でないことなどあろうはずがありません。
これは、それまで遠くにおわすと感じていた神と親しく、近しくなることから開かれるでしょう。
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洲崎にパラダイスは無かった...

2019-09-15 10:49:52 | 雑記
先日、も一度観たいと思っていた映画「洲崎パラダイス赤信号」(昭和31年日活)を動画で18年ぶりくらいで観ることが出来ました。

自堕落な男女が行く宛も無くたどり着いたのは、"洲崎パラダイス"と派手にアーチ状にネオンが煌めく"天国"の入り口だった...
"わくわく...生きたいような、いや待てよ、黄色信号だ、要注意i"...ここは、一度足を踏み入れたら二度とそこから抜け出すことの出来ない"地獄の門"ではなかったか...

ここはかつて吉原と並ぶ遊郭があったところだったのです。
天国だか地獄だか知らないが、ありし日の東京の風情が映し出されているのを観てるうち、なんだか無性にわくわくしてきて昨日、映画に出てきた下町の社長さん気取りで、スクーター(死語か?)飛ばして行ってみました。
初めての旧洲崎..."ここは今は何、東陽町?" 下町には疎いのですが、ずっと湾岸にあるのかと思っていました(岬なんでしょ?)。
大横川にかかる沢海橋を渡ってみる...
"あれえ、この時代に取り残されたような風情、見覚えがあるぞう、映画ではもっとデカイ橋のように見えたんだがなあ...地下鉄東西線の木場駅、一体いつんなったら改修するんだろ?...次の次の東京オリンピックまでは無理だろう..."
何てこと思いつつ、永代通り沿いを東へテクります。
"大門通り商店街...そこを過ぎるとジャンi ジャン.カレー店...おお、食った、食ったi...てーことは? なーんだ、ここ初めてじゃないじゃんi"...
そうです、私は約三年前仕事でこの周辺に来たことがあったのです。ただしここの東陽町3丁目交差点の南側へは、なんだか入ってはいけないような気がして(?)行ってなかったのです。
"大門i...ははーん、ここに例の巨大ネオンサインがあったのか..."
そこに入ると、かつてドヤ街だったところがウソのように、わずかにその佇まいの伝わる一角は残っているものの、こじんまりとした街並みが広がります。メイン通りの両脇は閑静な住宅街と言ってもいいでしょう。
"その通りにアーケード商店街とあるが、どこにあるんだろ...まさかこのただの通り沿いが? えっ、短っi"...
アーケードというのは、中野サンモールとか阿佐ヶ谷パール街みたいなとこだと思ってましたが...あまりにコンパクト過ぎやしまいか...
昼も周り、そろそろ腹が減って来たので探していると、やたらと中華料理屋が...それも決まって餃子の看板が目に付きます。
"もしかすると、ここは隠れ餃子の名物エリアなのか?"...そうなると、餃子を食べないといけないような気がしてきたので、空いているお店へ入ってみます。
"まずまず、ウマイi"...しかーし、その店の売りは"日本橋餃子"だったのですi
"なーんだ...しっかし、日本橋って、銀行で餃子作ってんのかi、知らんi"

とにかく、このこじんまりとした旧パラダイスは、アテが色々外れました。
もっとも、外れるのがいいのか、悪いのかよく分かりませんi
売春禁止法と共に、あの多くの人を幻惑させるネオンも消えたが、別の灯火がもたらされたとも言えるでしょう。
"私は一体、ここに何を求めて来たんだろう..."
かつて大きな、あの種類の宿があったとおぼしきところにある、小さいマンションの前で子供たちが無邪気に遊んでいました。
どこにでもある、ありふれた風情...時代は変わっても...
いや、これはどこにでもあるようで、どこにもないのでしょう。
私という人間が他にどこにも居ないように...どこにでも、そこにしかない顔というものがあるのです。
そして、そこに引き合わせられる日というのも、その日しかありません。
涼風が心地よく感じられるのも...そういう感性でいられるのも、やっぱり、そこはパラダイスなんでしょう...。
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彼岸花

2019-09-14 10:12:32 | 詩的文章
町の片隅に彼岸花が咲いていた

しかし、これは一体花なのか?...クモ?
艶やかというには、妖しすぎる
赤色がくっきり目に飛び込んでくる...
それは命の燃えるような情熱か
それとも...血が血を呼ぶ情念か
あるいは...煩悩を焼き付くす浄化の炎か...

"向こう岸におわす永遠の人に出会いたいi"
純一なる赤き心を呼び起こすのか
それとも...このサガがどうしようもなく引きづられてゆくのか
地獄の業火に...

気をつけろi
そいつにゃ毒がある
上ばかりに気をとられ
足が根っこに絡まれたら命とりi

それでも、うっかりその禁断の園に踏み入れてしまったのなら...
もはや、お前に為すすべはないi
上だの、下だの
善だの、悪だの
天国だの、地獄だの...
此岸のことはみんな忘れてしまったi

もう、ここまでi
こっから先のことは...
あの赤い道標に聞いてくれi



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