人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ノンデュアリティ難民よ、どこへ行く

2019-09-12 12:23:27 | スピリチュアル?
"スピリチュアル難民"という言葉は、以前からチョイチョイ聞いていたけど、最近はやっぱりというか、"ノンデュアリティ難民"というのが増えているらしいらしいです。
ノンデュアリティの説法というのは、"私は居ないんですi"なんて、難破船みたいに自分がどこに居て、どこに連れていかれるのか分からないもので、これは"ただ、起きているだけ"じゃなく、"起こるべくして起きた"と思わざるを得ません。
そして、こういう事態を招いた責任は誰に?..."誰も居ない?"
ブームの立役者の一人、阿部敏郎さんなんかは、最近は天河の方で、"かんながらのままに"を決めこんでいるようで、こういう事態のことなど知らんぷりのようです。
もっとも、その周辺に集まる人たちは、阿部船長がどこへ舵を向けようと、ただ船に乗っかって追従して行くようなところがあるので、あまり関係無いのかもしれません。
その阿部さんも、"言葉で言い表し、伝えることには限界があるし、言葉を持ち運んではいけない..."と何度か述べておられるのは全く同感です。
しかし、その同じ口で彼は、"真理はこれ(ノンデュアリティ原理?に則ったもの)しかないと、言葉を持ち運んで、決めつけたようなことを何度も述べていたのです。
(あの周辺の人たちは、私と違って(?)よほど心が広いのか、あるいは柔順なのか、あるいは又テキトーなんでしょう)
ノンデュアリティに限らず、スピリチュアルな領域というのは、何ら確たる実証など求められず、その必要もあまり無いものでしょう。
要するに掴えどころの無い、見えない世界なのです。このことは、その道を歩む中で、ゆくゆくは思念を超えちゃうという事態にもなりかねないことを考えればお分かりになるでしょう。
そして、又自分が何もので、今どこに居て、どこへ行こうとしているか分からない、そのことを知りたい人も拠り所みたいなものを求めている...そうするとどうしても何かを掴もうとしてしまうのでしょう。
それにはどうしたって言葉に頼らざるを得ないものでしょう。
そして、何らかの教えらしきことを語らなければならない教師も言葉を持ってせざるを得ないのです。
ここで、短絡的で、何かがいつもトンでいるような、この世の中に合わせたように...
"そういうあなたは居ないのですi あなたが居なければ何も問題は無いのですi"、とメガトン級のブッとんだ言葉がi...
このそれ自体が二元性を物語る(別に悪い訳じゃない)、この教える側と教わる側との関係に、ある重要なことを欠いてしまえば、そういう言葉は暴力じみたものとならざるを得ないでしょう。
"そうか、考えている自分は居ないのかi アハンi"と、何かを掴もうとする心根に強烈なカウンターを見舞われて、一時は思いは飛ぶこともあるかもしれませんが、大方は真理らしきことを頭脳智で、分かったつもりになっているだけでしょう。
スピ的な言葉というものは、言葉を超えた何かを運ぶものでなければ、どうしたってそうなります。
そして、又スピリチュアルな領域では、本当にノンデュアリティ(教える、教わるという二元性、ある教え、メソッドなどに分節されることの無い有り様など)な事態というのも起こり得るものです。
ことに、そこに言葉の、思念の限界が示されている、そのもの無くしてそうならないものを差し示しているような場などにおいては...
ノンデュアリティ難民に陥りやすいのは、教える方も教わる方も、言葉、思念の限界を弁えること、それを超えたものへの畏敬を欠いた心的姿勢だと思います。
このことが弁えられなければ、ますますこの界隈にはどこにも行き着かない思念が飛び交い、難民が増えるばかりになるでしょう。
スピリチュアルの現実は、思いを超えたところにしか開かれないと、いつも自戒させられている次第です。
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神の目、人の目

2019-09-11 12:05:21 | 意識、照明
スピ的なことに関して、私が書いていることはすべて正しいなんて勿論思っていません。
読者におかれましても、そう思われて当然ですよね?
もっとも、それ以前に"何を書いているのか分からん!"という方もおられるかもしれませんが...
ただ、いつも意識している、させられていることは、大体何ら確証出来ないことに対して、決めつけた、断定的な表現を使わないこと、予見に基づいて読み手に先入観、固定観念を与えてしまう表現をしないことなどです。
だってねえ...人の目、公の目というものがあるじゃないですか...。
そういうものに照らして、恥ずかしくなることは書けないじゃありませんか?
例えば私がチョイと知ってる某が、"フリーメーソンは、魂と引き換えに、チャクラを開いて人心を操作している..."、"日本で近年起きている大地震は、陰謀団体が絡んで人工的に起こしている..."等々発信してて、こんなことをよく臆面も無く、公共に流せるものだと思います。(一度人の目に、"ハハーン、あれはああいうことを平気で言っちゃう人間なんだi"、というイメージが焼き付いてしまうと、よほど本人から"反省?"の表明がなされでもしないと、容易にそれを拭うことが出来なくなります)
私はねえ、人の目、公の目というもの、世の中の常識、良識というものを充分に弁えて...
いないi...んな訳無いじゃあありませんかi
一体この世の常識に、"意識が向いたらパッと..."、だの"見えざる導師が降臨i"なんてことがあるかってんですi
"ありゃあ、又ヘンなこと言ってる"何て、んなこと気にしてて、お天道様を拝めるかってんですよi
いや、私は自意識過剰の人間なので、そういうことを全然気にしない訳じゃないのですが、モひとつ別の目で見られているのを意識させられているのです。
それがあの"すべてを見透す目"、神の目みたいに感じているものです。
あのご照覧を受けている...いつもいつも審判されているようなものです。
と言っても、この世の法廷みたいなものじゃなく、条文みたいに定められた法がある訳じゃありません。
そういう他律的なものじゃなく...え、自分の判断?(じゃあ、さっきと同じなのでは?)でもなくて、もっと内省して(これは、通常の意味ではなく、その照明に照らされる方に意識が向けられるということです)チッポケな私でない私にゆだねられているのです。
そして、私がしばしば"普遍性"ということを言い表しているのは、この光に照らされている感じから来ているのです。
この普遍性は、衆目の中に覆われていて見えなくなっているもので、世の中で普遍性というものは、その他大勢、世間一般の観方、感じ方に取って代わってしまっているのです。
特定の団体にしか通用しない、"これだけが正しいという真理、やり方"への固執...前世、何々次元...確かめようの無い教えへの、丸投げされた内省無き迎合...そういうものが果たして主我の思いを超えた光に照らされているのでしょうか?
表層的な思いの奥に"どうしても、これでいいんだろうか...頷くことが出来ない"、というものは感じないでしょうか?
本心で感じていないものは、どこかに遮る、曇ったものが思いに残っていて、直射日光に当たるような、"青空の下にまみえている"という感じがしてこないものです。 
そこで自分の小智でない、上智にゆだねられるかどうかは、"自分の理解は正しいものとは限らない"という自覚にかかっているのでしょう。
そうして、その"照らされた"内容のものが正しいかどうかは、どこまでも自分の思いを超えたものにゆだねられなければならないでしょう。


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内なる共同体を求めて

2019-09-08 11:20:37 | 哲学・思想
「共同体とは、あらゆる生命の内面的根源である神を通して人と人が交わることを意味する。これに反して集団(主義)は客観化された、にせの集団的実在者と関係し、他の人間と交わることを意味する」(ベルジャーエフ。著作集6巻「霊の国とカイゼルの国」/白水社刊)

ベルジャーエフは、戦後共産主義が著しく台頭した世界情勢の中で、その思潮がしばしば共同体と結びつけられて語られるのを受けて、それと区別すべく、本来の共同体とは如何なるものかを明らかにしました。
ある外的権威となるイデオロギーの下に、外的力で人心を集合させる共産主義は、集団主義ともいうべきもので、我々の人格、内的生命のつながりをもたらすものではなく、共同体という表現は似つかわしくないのだ、と。
しかし、集団主義は太古から種族、国家、階級などにおいても我々の精神を支配し続け、共産主義やファシズムなどの全体主義はそのより強固な例と言っていいでしょう。
それは、教会などの本来精神的共同体とされるものにさえ、その見せかけの共同精神は見られるものです。
私の経験では、こうした宗教的、精神的な集まりほど、この二つの意識の在り方を浮き彫りにさせるものはない、と感じています。
それが我々の精神、内なるものという本質的なことと関わるものだけに、そこから逸脱、変質した有り様もことに意識されるように思われます。
ベルジャーエフがその集団主義と対比して、言明したのも、彼が言う我々の内なる普遍調和世界ソボールノスチについてだったのです。

ごく最近東京のクエーカーの集会で、この信仰共同体のことが問題になりました。
クエーカーと一口に言っても欧米などでは、「保守派」「近代派」「福音派」といくつかその在り方を巡り教派が分裂しているのです。
これ自体すでに、クエーカーは、その"主にある一致"を目指す、全一的な在り方は、すでに破綻していることを物語っている訳ですが、東京の集会においてもお互い"歩み寄れる"一致点を見い出す必要があるのではないか?という意見が出されたのです。
ある人との対話の中で私は、「それが内的な、もっとも本質的なことならば、各人にゆだねられるべきではないか?」と言ったら、相手からは「それでは共同体では無くなってしまう云々」との答えが帰ってきたのでした。
私の内に息づいているものは、共同体らしき、その実"皆さんの民主主義的合意"に基づいた理念にアダプトされねばならないのでしょうか?
私はそんな"デキアイの共同体"なんぞには絶対にくみしたくはありませんi (だからずっと未会員のままなのですが...)
でも、ごく最近そこに熱心に通われている、私と必ずしも考え方が一致している訳でもない、ある方(とにかく"、"聖書"、"福音"に通じておられる)との交流で言葉を超えて、一なるものにつながるような実感を持ったことがあります。
私は私、あなたはあなた...しかし、同じ命を共有出来るような事態、これがベルジャーエフの言う、ソボールノスチというものであり、教会ーエクレシアーというものの原義であり、誰も知らない"大調和世界観"(大調和協会で説かれる)というものなのでしょう。
これは勿論二人以上の複数にあっても展開されるもので、個である私と他の人格、全体とは、お互いを損なうこと無く調和のうちに導かれるのです。
これは人間が考えて、合意して全体に合わせるようにして設えるものでなく、"思いを超えたところ"からくるのです。
しかし、それはある形を成した集団には見い出すべくも無いのかもしれません。もはやそれは地上には求められないのでしょうか?
それでも私は、それが残り火のようなものではあっても、この内なる火を消してしまう訳には行かないのですi
それが一人だろうと、二人だろうと、主が臨めばその交わりは、神の国の種となるだろうから...。
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救いと救済

2019-09-07 11:38:54 | スピリチュアル
"悟りと救い"というものは、大体において宗教的、精神的道では切り離されないものと考えられていますね。
ところが、最近の覚醒とか一瞥とかワンネス体験に与ったという報告の中で、時に"そういう体験なんかたいして意味など無いんですよ..."、"自分自身のことも世界のことも、何んも意味など無いってことを見抜いちゃったんです..."と、ホントにある意味で悟りめかした、他人行儀かつ虚無的なことを伝える言葉に接します。
こういう人たちって、そこで"救われたi"という実感を持たないのでしょうか?
それとも渦中にあった時、その直後には感じていたけれど、ほとぼりが覚めるにつれ、それが薄れてしまうのでしょうか?
救いと言っても、それは人それぞれ捉え方、感じ方はあるでしょう。
現実生活に即したことだったら、病苦や生活苦から救われることだったり、そういう表面には表れない心の悩みからのものだったり...
ともかく私には、その実感が持てないということが分からない、信じられないのですi
(以下のことは、あくまで私が感じたことを記すまでで、これが正しい真理だと言っている訳じゃありませんi 念のため)
その私が実感したことというのも、一口じゃ言えないことなのですが、あえてその一端を切り取って言えば..."諸々のトラワレからの解放"ということになるでしょうか?...
それまで私という人間が、如何に"トラワレ自体が生きている"と思えるほど、それを背負い込んで居たかを思い知らされたのです。
そういう牢獄のような状態から自由になることは、非常に深みを内包した"救われ"だと思います。(もっとも、これはそういう局面が開かれたということで、完全に救われたということではないのですが)
このことを強く感じたのは、あたかもこのあらゆる混迷、不調和、不自由を抱え込んだ現実世界と、パラレルのように私の内面に写し出された、有機的、普遍調和世界において、私は私である自由を感じたまま、他との共同的在り方を示されたことなのでした。
そこで私は単なる私だけの救いにとどまらない、"救済"という意味合いのものも感じたのです。
さらに言えば、それは、その救いと救済とは切り離すことが出来ないということだったのです。これは私という個体とその有機的つながりがそうした有り様、全一的になっているということです。
これは自由、調和ということに関して言っていることですが、そのことに限らず救いと救済の問題にはもっと根本的なものがあります。
そのものを欠いてはすべては無いi
これを欠いたらホントにホントに、人生の意味も私も宇宙もなーんも無いと言っていいでしょう。
自由、調和、そう感じている私をあらしめるもの...そうですi 救い、救済とは神的なものが臨むということです。救いと悟りというものは切り離せないのは、こういうことなのです。
ここに、私と真向かいに臨んで来られる...怒れる神、裁く神、遥か遠くに居て、思い描くことしか出来なかった神が、ここに...
これを救いと言わずして何であろう...神が救ったり、救済するか、どうかではないi 神のみ現れ、臨むこと自体がそうなのではないでしょうか?
救済ということについては、勿論それは私がどうこう出来るもんじゃありません。
ライトワーカーが何をするのか知りませんが、私の救いは先述したように、それのみでメデタシになってしまえば、それこそオメデタイことになってしまうでしょう。
救われたという実感はあるものだけれど、どうしても心の底からそういう風には感じられないものは残るのです。
とにかく...私は今示されていることをさせられるのみi それは神的なものを表してゆくこと...それが救済につながるかどうかは神のみぞ知ることでしょう。
そして、このことは昨日記した神の、"私はお前を離さないi"という呼びかけへの応答なのですi
"主よi 私はあなたを離れませんi"
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神慮と覚醒

2019-09-06 12:04:37 | 覚醒
"覚醒という事態は神的意志、神慮というもの無しに起こり得ない"とは、何度強調しても、し過ぎることはありません。
私がチョイと知ってる某は、"完全覚醒すると、宇宙の運行が妨げられるので、神(宇宙意志?)の意向に沿わない云々..."などとブログに書いていました。
分かるはずのない神の意志、宇宙の運行について、他人の教説に依存して、こういう空想ごと、妄想ごとにうつつを抜かしている御仁には覚醒といったことは決して起こらないでしょう。
何故ならば、そういう思考マインドというものを置いていかなければ、けっして覚醒の扉は開かれないからです。
まして"完全..."などと宣うとはi
こういう人はずっと自分の意志想念で、そういうものに与れるという思いを拭い去ることが出来ないようなのです。 どこまでも主我的なのです。
だからそういう心根をくすぐる"完全"、だの"究極"だのに思いが向いてしまうのでしょう。
こう、エラそうなこと言っている私は、実は神のことなど分からないし、そのご意志も分かったなどとは言えません。
でも、強烈にそういうものを感じたことはあります。言うまでもなく、思いを超えた事態の中で...ということは、それはもはや理屈でないということなんですが...
"今、私の実存に神的なものが臨んでいる...神と共にある..." これは、そもそも覚醒という事態は、実にこのことを他所にしてあろうはずのないことを言い表しているつもりですが、ここに"神のご意志が感じられる"...か、どうかは理屈ではどうかは知らんけど、こんな分かりきったことは無いのですi だからそうなっているのですから...
そう、神は私をそのみ元につなげることを望んでおられるのですi (こう書いていて"じんじん"と大変なのですi)
こういうことを理屈の沙汰にしている者には絶対に分かりようのないことです。
そして、神は同様にそこから私が離れることを悲しまれる...(そう、感じちゃったのですi)
さらに、神はずっと私と一つに在ることを望まれるようです。
私は完全覚醒とか、悟りの段階の頂点だとか、ここからズレるようなことは知らないし、知りたくもありません。
でも、私は感じました。神とずっと一つで在るということは...人間が考える生死の問題を超えているということを...
人間の倫理はどこまでも、"何がどうあっても、あなたは生きなければならないi"というものでしょう。
しかし、私が感じたのはこういうものです。
"お前がお前の世界で生きたいのなら、さあ、起きて行くがいい...でもずっとこの至福の世界で休み続けてもいいんだよ..."
誤解しないで頂きたいことは、この"ずっと神と共にある"ことは、直ちに死を意味することではないことです。まして自死の問題などではありません。
それは、"生きても、死んでも(?)"神と共にある、ということです。それは、この神を無きものにしている問題だらけの現世を生きる中でも可能なはずです。
しかし、それが普通に生活することが困難なくらい、超脱的、現世離れした在り方に導かれることもあるかもしれません。これはある意味では死を意味するのかも知れませんが...
中には本当に遷化したように、この世から無くなってしまうこともあるかもしれません。
そして、生きて生きるか、死んで生きるかは、私やあなたにゆだねられているのです。それは大本の自己の自由意志によるのでしょう。
どっちみち、このことはちっぽけな自分が思い描いているようなことじゃないのです。
観念ごとを超えて、真摯に神に、自己に向き合わなければ、けっして開かれないでしょう。
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