人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

思われた自分からは何も始まらない

2019-11-04 10:24:43 | 意識、照明
私がしばしば"照明"と言っているもの、自分を超えたところから観照し、私を見透しているような目、光といったものについて、"それは、あなたの目がそうなっている、ということを言っているんじゃないですか?"、というように受け取られた方が居たのですが、これは非常に大事なことで、断じてそんなことは無いのですi
"あなたは自分は神に等しいと思っているのでは?"なーんてこた、あーた全然...ま、ちったあ思うこともあるでしょうが、これは私の説明不足、そういう自我性が顔を出すということに起因しているのでしょう。多分...
ともかく、この話は、私が"自分で自分の内面を見つめる、観察するなんて普通に言われるけど、それって難しくないですか? 色々考えている自分が自分を見つめるってことは、どこまでも考えている自分から抜けられないってことにならないですか?"、と切り出したことから始まったのですが、あまり相手には伝わらなかったということなのです。
う~ん、何かすべてを見透すような光に照らされている感じ、"きんきん"、"じんじん"してくる感じ、何かそれにより意識がある中心に収斂されてゆく感じ...(色々な表現で言っていますが、すべて一つのことを言っているのです)分からないかなあ...私だけか? これはもしかして途方もないことで、それを平然と言っている私がオカシイのか?
私はしかし、そういう感じがあるっていうことが分かるだけで、例えばその上から観照する目が、何を映し出しているか、ということは分からないのです。
と、いうか、チラチラと何かが垣間見れるようなことがあったとしても、それを頭脳知で知ろうとしてはダメなのですi
何故か?...何故ってダメだからダメなのであるi...この思われた私があの御方に取って代わってはならないのですi
これは理屈でなく、そう知らされていることです。書かれざる律法みたいなものです。
これが(そういう風には導かれない)"見えざる導き"というものなのです。そうすることで、あの感じを失うことになるでしょう。
要するに、思われた自己が主導になってはならない、そこからは何も新しいことは始まってこないということです。
だから...そこに神を待ち望む、祈りということがあるのでしょう。

先の話の流れで、前回の記事に関連して私は、"神が我がうちにお在すことを観念的に信じようとするよりも、神の中にあって、我々はそうあらしめられている、ということが、今の私には自然に感じられてくる..."、ということを申し上げたら、これはその相手にも何か感ずるものがあったように見受けられました。
先のあの感じとか、この感じというのは、実にこの"~の中に"ということを言い表しているのです。
"現臨が臨む"と言ってもいいでしょう。
そして、この一寸お互い通じ合わないようなところもあった、その会話でしたが、あるところでそれが臨んでいたということも私は感取することが出来ました。
それに対してわざわざこじつけのような理屈を付したりしないで、ただ感じているだけでいいのでしょう。

今日は文句無しの秋晴れに恵まれました。秋の優しい日差しに包まれて...ただそれを感じていたい...。
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~の中に

2019-11-03 04:58:19 | 求道、探究
「"信ずる"とは知識的に是認することではない。また感情的に信頼することでもない。キリストを信ずるとは彼の人格の中に我が人格を投入することである。そうして我を無き者として、彼をして我に代わって我がうちにあらしむることである」(小池辰雄)
「人間の魂は、理屈では救われません。...私たちがキリストに抱かれるというか、キリストの中にあらしめられると、生命の御霊の法則が働いて救われるのです」(手島郁郎)

"信ずる者は救われる"という言葉の通り、これまで多くの宗教で、観念的に"信じること"ばかり説かれてきました。
しかし、"信じる宗教"の在り方は、巷ではオウム真理教の事件などを通して、迷妄に陥るか、生きる上で何らの力ももたらされないということが認知されているようです。
そして今日では新たに数多スピリチュアルの名の下に、宗教に代用して展開されてきています。
そこで、その"新手の教え"は従来の宗教とは異なることを強調して、例えば所謂ノンデュアリティのように、"神は教理を信じることでなくて、あなたのうちにいる、あなたが神そのものなのです..."などともっともらしく説かれたりします。
しかし、もっとも肝心なことは、どういうことがそこで説かれているか、何をどう理解するかということではありません。
具体的にそうあらしむるものが無ければ、我々は抽象的に信じるしかないからです。
宗教だろうと、何かのスピだろうとその教えに関心があるのなら、どうしたって信じようとするのです。
こういう有り様は、信じる私が居て、信じられる教えという二元があるということで、ちっともノンデュアリティ的ではないでしょう。
問題は宗教、何教、スピ、二元、非二元...といったことじゃありません。
もう言葉の詮議などで魂はどうともなるものじゃないのです。
このように精神的な道においては、いくら形は変われども、どこまでも思念、観念ごとに流されてしまうものです。
たとえ、あなたの中に神が、キリストがお在すとしても、具現するものを欠いたならば、そう思い描いているだけでしょう。
"内在信仰"というものは、あたかも思い描いている自分が神を取り込むようになり、こうした穽に陥り安いものです。
私がいつも言っている、現臨にあるということは、キリスト教的にはキリスト、聖霊にあるということです。
これは小池、手島両先生がいつも強調されていたことで、~の中に、~の中で祈り入るという消息を伝えているものです。
私は、小池先生の集会でも、キリスト者でない、大調和協会の命位様と接見している時でも、そういう場にしばしば導かれたものでしたが、いつの間にか、信じようという意志的心理が抜け落ちてしまい、頭では分からないながらも、自分は愛と平安のうちにあることが自然(じねん)に知らされたのでした。
意識を向けるも何も、勝手に向いてしまうのですが、現臨がそうさせるということです。
~の中に...ということは、神的なものを対象として、二元化、分離を強めてしまうことでもなく、自己を神そのものと、一つのものと信じようとすることで、やはり思念を超えられなくなることでもなく、無理なく、自然にそのものとの一体感をもたらすものと言えるでしょう。
それは、どこまでもそうさせるものが主導となることであり、そのものの前に自然と手を合わさざるを得なくなるでしょう...。
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二つで一つの顔

2019-11-01 11:55:50 | 独語
僕は自分という人間がホントに分からない...
僕は二重人格者だi
自分でもそう思ってきたし、人にも言ってきた
表も裏もある、はっきり使い分ける
不機嫌そうで、人を寄せ付けないと思ったら、すぐ人懐っこい態度を見せたり...
こだわらない性格?..."細かいことがすぐ気になる質なもんで"...
竹を割ったような...物事を決められない性格
どうしてこう相反する性格が、上手くにか、問題だらけにか同じところに居られるのだろう
時々自分が神の寵児かと思うことがある...しかし、自分の中の魔性にゾッとすることもある...
そう、まるでネコだ!

最近になって、ようやく分かったi
こんな当たり前のことなのに...
僕は相反するものが分裂しているようでいて...分けられないのだi
何でも分けられるんだったら、学校で算数で泣かされることもなかっただろう
振り子は右や左に行ったり来たりしているが、一つの振り子に違いないi
移り気であの道を行ったり、この道を、いくつもの道を行ったりしてきたが、一つの道しか歩んでこなかった気がする...
振り子のように中心に戻されているのだろうか?
戻らされるものがあるi
僕がどんなに二つに、多重に分裂していようと...
見えない中心に統べられてゆく...
どんなに分裂していても、僕はここに居るi
分けられてしまったら自分じゃなくなるi
しかし...
分けてみたい...僕はヤッパリ二重人格?
一つになったり、二つになったり...
別の自分になりたい...どうしてもそういう自分が顔を出す...
変身願望i...わくわく...
ははーん、そういうこと?

"お前のその恐怖のパフォーマンスは、真に迫っていてコワイi 何でだ?"
"それはね...多分そう成りきっちゃうか、何かに取り付かれるからだろうよi"
裏の顔が表にi
どっちが裏で、どっちが表かは分からないが...
人が凍りつく瞬間ていつ見ても楽しいなあi

そして、ハロウィーンは終わった...





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