人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

現臨と神の国

2021-02-13 10:12:19 | 現臨、ハタラキ
現臨にあることは、愛、平安...そして本来の自分にあることです。
これは、そういう意識状態にあるということで、そういう"ゾーン"に入ったということ、意識の変容により、そういう場が形成されると言ってもいいでしょう。
これと似たような意識状態で、自己と周囲との境界が全く分からなくなってしまうようなことがあります。
私が幼い頃、しばしば夢遊病のようなことに陥っていた時の意識状態がどうもそんな感じだったようなのですが、苦しみなどが感じられない反面、愛とか平安、リアリティといったものも感じられません。何より"私はここに在る"、という感覚も無いのです。
これが、"私はいない"といった、悟り系、非二元のスピでよく説かれている境地なのでしょうか? それを追い求めている向きの気がしれません。
これも正しくゾーンに入ってしまったという感じなのですが、おそらく通常の日常生活を送るのは困難になるでしょう。
他者とのコミュニケーションが取れなくなるようです。又、他者からの働きかけこそがこの危機的ゾーンからの有効な脱却の道となるでしょう。(アタシャ、究極の悟りだか何だか知らないが、こんな意識障害みたいな境地など望んじゃいないのですi)
これもある種の意識場とみることも出来るでしょうが、そこには全く他者との関わりというものがありません。それもそのはず、私という感覚も無いのだから、他者という感覚も持てなくなるはずだから...
近年ではよく"つながり"ということが言われますが、それは、私、他者というものがあってのものに他ならないでしょう。
現臨によってもたらされる意識場においては、自分だけが特殊な意識状態になっている訳でなく、そのゾーンは他者と共有出来るのです。
即ち、自他の調和の道が開かれるのです。勿論その他者は、自己と思想や信仰などを異にしていることで何ら障げられることがありません。
それが思いを超えているということなのです。
これは、ベルジャーエフ流に言えば、自己が主観的な意識に閉じられた、自己内の世界から具体的な客観世界へ歩み出るということを意味しています。
もし、神の国、ミロクの世というものが実現するとすれば、普遍的にこういう自他が、主客が合一した意識場が形成されるということでしょう。
たった一人、いや必ずしも人間である必要も無いのかもしれません。意識場を共有、共感出来る他者があれば、そこに神の国の萌芽を見い出すことが出来るでしょう。
..と、こう書いていて、来ない先の未来のことを書いている気がしないのですが...そう、現臨というものは、自己を、世界を、"現存"在らしめるもの...それぞれの場が、"現実、現存から切り離されない"未来へと転じられ、我々本来の世界~神の国が開かれてゆくのでしょう。

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現臨は無限定

2021-02-11 10:11:56 | 現臨、ハタラキ
現臨と私が呼んでいるのは、何ら特殊なことを言っているのではなく、おそらくすべての宗教、スピの世界と関わるものでしょう。ひいてはすべての人にも...
それは、そのすべてのものをそう足らしめている命そのものと言ってもいいでしょう。
ただ、それを一つで言い表す言葉が無いので、便宜的にそう言っているまでです。(強いて、神と言ってもいいかもしれません)
一部のスピ界隈で"プレゼンス"と言われたりしているのと通うものがあります。(というか、そのほぼ訳語みたいですけど...)
神は自己に超在しているのか、内在しているのかと分かれたりしますが、現臨にあるということは、外も内も無く、それに包まれてしまうようなことです。
そのように限定することが出来ないのです。私は現臨と呼ぶことで、特殊なものに偏するものでない、この無限定性、普遍性ということを伝えようとしているのです。
現臨にあることは、愛、平安、リアリティと共にあること...私はこの感じを主として、キリスト教的なものとの関わりから養ってきたのは確かなことで、その言葉もそこから借りているのに他なりません。
だからといって、"その愛、平安などをもたらすものこそ、イエス.キリストに他ならないのですi"、という風にはけっしてならないですよi
これが彼らキリスト者たちの不思議なことで、私はただの一度も、あの見えない導きの主から、"我はイエス.キリストであるi"と告げられたことは無いのに、何故彼らにはそう言い切れちゃうのか? "イエスが復活したという事実は客観的事実だi"、とまで主張する人もいるくらいなのです。
クリスチャンだけにしか通用しない、客観的事実など一体あり得るでしょうか?
しかしながら、私は、彼がその客観性まで持ち出してまで、かく言わんとする気持ちは分からないでもありません。
要するに、それは疑いようの無い事実だ、と言いたいのでしょう。彼らがそう本当に感じているのならそれでいいでしょう。私は人それぞれの道を尊重するので否定しません。
こういう信仰告白の確信的部分にはおそらく、イエス.キリストという具体的存在に無限定的なもの、普遍的なものが重ねられて、内包されて感じられているものと思われます。
浄土系仏教の人たちが阿弥陀仏にそういうものを重ね、あるいはその名号に凝縮させているように、です。
私にはすぐ小池辰雄先生の"キリスト.イエスは無者である"、という告白が思い起こされます。
ただ、注意すべきことで、キリスト者が得てして陥りやすいことは、"キリストのみによってしか救われないi"、と排他独善に走ることです。
それではキリストが内包している、無限定性、普遍性を自ら殺してしまうことになるではありませんか? (だから私はこんなクリスチャンはムシズが走るほどキライなのですi)
無者、無限定なるものとは、比較相対というものを絶しているものに他なりません。
小池先生の信仰告白からもそうした消息は充分に伝わってきます。しかし、一方では"イエスは釈迦とは比べものにならない..."などと安易な相対観に囚われてしまう傾向も無きにしもあらずなところもあったのは残念でした。
私はどこまでも現臨の無限定性を伝えたいi
"そんな、何だか分からないアヤフヤな言葉では、その具体的に与るというものが伝わってこないではないか?"、と中には感じている向きもおられるかもしれません。私のことでしたら、意識を向けたら、具体的にパッとなる消息を知っているのでお構いなく...もう、"現臨i"と意識しただけでそうなります。
そういう人にはイエス.キリストでも阿弥陀如来でも、それぞれの縁に応じた具体的な"応身"に依ればいいのです。
そして、それはどこまでも、それは無限定性、普遍性に開かれているということが肝要なのです。
コメント (2)
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お天道様が見てござるi

2021-02-08 10:58:03 | 意識、照明
前回の記事で私は、"裁判の宣誓てーのは、神の名の元に、それを冒涜するものだi"、なんてこと書いてたんですけど...映画「オペラ.ハット」とか「十二人の怒れる男」(古いi)とか観てたら分かるでしょ?
はっi、あれは海の向こうの話、キリスト教中心の国の話なんだっけ...当たり前すぎてハズかしいi...(欧米ではそうなんだからいいだろi)
だから私は人の知らない、どーでもいいことは沢山知っていて、常識的なことには疎い人間なんです。
私は非国民なんでしょうか? いいえ、神を知らない日本人の方が非国民なんですi 誰が日本人だかさっぱり分かりませんが...
この国では何ですか、その宣誓では"良心に従って..."とか言うんですか...初めて知った訳じゃないけど...
良心。...う~ん...私の"りょうしん"はとっくに死んじゃいましたよi 死語のように感じるのは私だけでしょうか? 
"黒会"でやり取りしてる人たちとか、何かの釈明会見とかしてる人たちにお訊きしたいです。良心てなんですか?、と。
人間は良心を有しているのでしょうか?
如何にも私が居て初めて、良心が有るとか無いとかって話になるようです。これはやっぱり"良い"とか、どうとかの心の問題になるのでしょうか?
それではどうしても私には、私の思いを超えた消息のことが伝わってこないように感じてしまうのです。
それで、"私の良心の御前に、真実を述べ、隠しごとをせずに、偽りを述べないことを"誓えるでしょうか? 
良心は、多分に道義的なものに意識が反映されているように思われます。
つまりは、"そう思っているもの"ということであり、自分の意志で操作することも可能なのではないでしょうか?
しかし..."あの御方の御前に...ああ...もう、ダメですi 隠しおおせない、ありのままにならざるを得ないi..."
人間は自らを律することも、当然のことながら自らを裁くことも、人を裁くことも出来ないのではないでしょうか?
そのあらゆる思考、欲望の暴走も止めることは出来ないのではありませんか?
それは神的なものによってしか出来ないi
この国では、神という言葉をウカツに使うのはどうもはばかるものがあるらしいです。
普通に、この国を"神国"と呼んでいた時代からまだ一世紀も経っていないにも関わらず...
"良心に従って云々"というのは、実に民主主義に根差した在り方と言えます。
如何にも神を無きものにしたって感じですが、"神の名において"、これを冒涜することに比べたら遥かにマシなことだと思います。
しかし、頭の中には神も、お上も死に絶えてしまったかもしれませんが、"お天道様が見てござるi"、という言葉からもたらされる感覚はどっかに息づいているのではないでしょうか?
みんな分かってるはずでしょうi...何もかもが茶番だらけだってことが...ホントはもっとらく~に生きれるハズなんだってことが...青空の下明け透けで生きてていんだってことが...
隠したってムダだi "お天道様が見てござるi"
人間は、人間を超えたものによって初めて裁きに"与れる"ことが出来るのでしょう。
裁きとは実に許し、愛、平安に与ることの裏返しに他なりません。神的な光に与るとは、そういうことなのですから...
いつも見て、感じている太陽も目覚めてみたらホントのお天道様のように、別様に感じられるかもしれませんよi


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正直に生きよう

2021-02-07 10:53:23 | 雑感
正直に言いますi
私はこれまで随分とここで、自分が如何に超然とした、あるいは悟ったような人間であるか、ということを読み手に持たせるようなことを書いてきたように思います。
色んな意味で、私はどうしたって悟ることなど出来ない人間なのですが、まあ正直、浮き世離れしてるというか、全然世の人と歩調を合わして生きてないところがあります。
"世の人のことなんか知ったこっちゃないi"、っていう風に...
しかし、これがうんと社会的な面、生業の場においては全くそうでは無いのです。もっともそうであったら、"手動は無為にして為すi"、なんて大変なことになるんでしょうけど...
私は普通に企業に隷属して、他の人と歩調を合わして働いている人間に過ぎないのです。
従って、職場では自分が関係している企業の不利になるようなことは言いません。契約書とかでも、現在、病気持っていてもそれを隠したり、事実をありのままに申告したりなどしません。(社長さんi あんなものは紙切れってことでよろしいのですよねi)
このように、多くの(大人の)社会生活ではウソが罷り通る何てのは常識でしょう。
この世界に居たら、心身の疲労、ストレスといったものがどこから来るのかがテキメンに分かります。
キツネとタヌキが化かし合い、揚げ足を取り合ってるような、"黒会"などなんで開いている意味があるでしょうか?
すべての裁判というものは、最初の宣誓においてすべて決せられる、と私は思っているのですが、これほど神の名において、神を冒涜しているものはあるでしょうか?
"ああ、神の御前にあって..."、正直でありたいi 正直にならざるを得ないではないかi
正直であることは、けっしてウソはつかないということではありません。
"私はウソは申しませんi"、というほどのウソつきは居ません。
正直な人間は二度ウソはつかない..."君はウソをついているだろうi"、とツっ込まれたら、どうしても隠しおおせなくなるものです。
正直な人間は、自分がウソつきであることを認められる人間です。つまりはありのままを受け入れられるということに他なりません。
"正直に言わんと、タメにならんぞi...さっさとゲロしちゃえよ、らく~になるぞi"
悪いことしようが、しまいがみんなホントはらく~になりたいんじゃないですか?
ホントは弱いのに強く見せなければならない...ちっとも幸せじゃないのに、ハッピーなふりをする..."バレたらどうしよう"と、いつもオドオドしてなきゃならない...綻んできたら、取り繕いにあたふた...一体、誰が何のために戦ってんだi...自分がぼろ切れのようになるだけなのに...
社会生活ではどうしても人の目、世の目を意識してしまうものです。でも、私はせめて自分自身には正直でありたいのです。
といって、何もバカ正直になるってことじゃりません。
他人や関係する企業について正直に言うと、多くの人が不利な立場に置かれてしまうことになりかねなくなります。コロナ禍の今のご時世だし...
でも、私個人のことについては今後(なるべく)正直に対処するつもりです。紙切れのような契約書にサインなどしませんi
それで他人が不利を被ってしまったり、あるいは私がクビになったとしても致し方ありません。(どうして、こういうことには今まで意識が向かなかったのだろうと正直思います)
すべての人は自分に見合った通りにしか生きられません。ウソも隠しだても無く...それがありのままということです。
光が当たるまんま...吹きさらしのまんま...ああ、何て清々しく、らく~で居られることでしょうi...何でウソで固められた鎧を着て苦しんでいるのでしょう。
何故、この我々の世界はかくの如くになっていないのでしょうか?...ウソっぱちで溢れているではないかi...みんな夢じゃないのかi

みんな正直で、ありのままだったら...この人類世界がまるごと覚醒するであろうi...


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神の国の音信

2021-02-06 10:44:36 | スピリチュアル
私がいつも書いていることは、言わば神の国の音信を伝えているようなものなのです。
もっとも神の国といったって、実現してみないと、どんなものだか分かりゃしませんね。
そこは私の想像を働かせてと...と、いうんじゃなくて、しきりに見えない導きのようなものに促されているんです。
そうすると、実際は神の国のことは知らないのですが、促されるまま、感じたままを書かされる訳です。
例えば、これはもっともイメージされやすいことですが、我々が太陽の光に与れるように、もの皆が一なる生命、光源より、あのすべてを照らす光の恩恵に与るようなことです。
促されるということは、実際にそういうものの何がしかを受けて、感じているということに他ならないのですが、空想に任せて思い描くこととはちと違いますよ。それは思いを超えた世界よりの音信なのだから...
一なる生命、神的なものを頂く...それを求めての飽くなき、人間的な、有限な思い、力に依る戦いは終わりを告げることになるでしょう。
こういうものに与りながら、より高き次元を目指し、究極の悟りのようなものを追い求めることに何の意味があるでしょうか?
他のものを差し置いて、"私だけは悟っている"、などと宣う人間はどこに居るでしょうか?
そういう人間は、一なる生命から切り離されることになるのではありませんか?
"ああ、私はどんなに愛、平安に与っても、どうしても、どうしても全的な、ホールネスなそれを実感することが出来ないi...私の世界はかくの如くあるから..."
私はその愛、平安を目の当たりにした時に示されていたのです。この個なる私は、普遍的全体なるものと切り離されていないということを...
そのものにあっての愛、平安なのだということを...
個と普遍の相即...全一なるものが開かれるのみ...
思いを超えた神のみ顕れ...思い思いに信じられている神は幻想となる...狂信者は、自分の夢の中でずっと戦い続けているのです。夢だと気付くまで...
"宗教が無くならなければ、弥勒の世は来ない!"(出口王仁三郎)
宗教、イデオロギーの対立...今、ここに在る、愛と調和が失われているという思いから、それを自分の向こうに追い求めようと、人類は飽くなき相克の歴史を繰り返してきたのです。神、真理、正義の名の元にi...こりゃ、全く夢じゃなかろうか?
夢から覚めたら、日の光がそれまでと全く別のもののように感じられてくるでしょう...。

この目に見える現実というものは、果たして本当に現実なのか、それとも...
実に奇妙だi...
私は一体今、何に与り、何に促されてこれを書いているのだろう...
来ない先の未来のことを書いている気がしないi
私の回りで、世界で起こっていることはすべて夢に思える。
一体、誰が目覚めるというのだろうか?
少なくとも...
今、感じ、促されているもの...これこそは疑うことの出来ない現実なのだi
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