ある時、いつの間にか幸福感に包まれてしまい、もうじっとしてられないから外に出て歩こう...
というような感じが最近再びもたげてきたようなのですが、"外に出て電車に乗ればいいじゃないか?"、と思う人もおられるかもしれません。
あたしゃ、もう即..."イヤi"ですi...この味が分かり始めた40年前と一緒です。
当時は金が無いので、交通費を浮かそうということもあったのですが、それよりもっと大きな理由があったのです。
電車に乗るってことはですねえ...駅に行かなきゃ、切符を買わなきゃ、階段を上らなきゃ、次の電車は目的地に停まるのかどうか確かめなきゃ、ええっ、乗り換えないとならないのかi...もう、やってられるかってんですよi 直通ならまだしも。
私は極度のメンドクサがりなのは確かなことです。だけどねえ、いくつもいくつも"段構え"があるってのがイヤなんですよi
それに今だと3密を避けるという問題もあります。ただでさえ、駅のあのゴミゴミした雰囲気、満員電車ってのがキライなんです。
"歩いてる方がよっぽどメンドクサいじゃないか、電車の方が早いぞi"、だってi...冗談じゃないi...早い方がいいんなら、さっさとお向かいが来て死んじゃえばいいだろi
...といっても、あまりに遠方の場合、仕事がらみのことはこの限りでないのは言うまでもありません。"ああ、くーちゃんi"
私がここでどういうことを言いたいのかというと...足が自然に何ものかに促されるように、赴くというような状態があり、一方でそれを中途で断じられてしまう、無為的な行動が人為的、作為的な行動によってセパレートされてしまうものがある~これを段的なものと言っているのですが~ということなのです。
中断があるということは分節にハマるということ、直接的でない、即していないということです。
自然に赴くということは、ある種のゾーンに入っているというか、三昧みたいな感じになっているのでしょう。こういう味を私は40年前からシメているのです。
こういう幸福感に与っていることは、他のどんな時間のうちにあるよりも得難いものに決まってるじゃありませんかi それを置いて早い方を選ぶなんざ、究極の時間の無駄ってもんでしょう。
何かの瞑想の指導では、三昧の境地に達するには呼吸法がいいとか、意識をどっかの部位に集中すればいいとかあるらしいですが、自然とそうなってしまえば、そういうのは皆パスしてよくないですか? 教師の言うこと聞いてないと怒られそうだし...
自然に足が赴いているのに、"呼吸は..."とか、"意識を集中せねば..."とかやってられないですよ。せっかく、見えない教師の声なき促しに従っているようなのに...
先に下りの坂道があれば、自ずと下ってしまいます。これが自然な流れというものです。隣に階段があったってそっちにゃ赴かないでしょう。いちいち足を段取りに構えなきゃならない...。
こう書いてきて、私がどうして今まで特別な修行法と関わってこなかった、ということが分かった気がします。
見えない導きを受けていたとしか言いようがありません。
というような感じが最近再びもたげてきたようなのですが、"外に出て電車に乗ればいいじゃないか?"、と思う人もおられるかもしれません。
あたしゃ、もう即..."イヤi"ですi...この味が分かり始めた40年前と一緒です。
当時は金が無いので、交通費を浮かそうということもあったのですが、それよりもっと大きな理由があったのです。
電車に乗るってことはですねえ...駅に行かなきゃ、切符を買わなきゃ、階段を上らなきゃ、次の電車は目的地に停まるのかどうか確かめなきゃ、ええっ、乗り換えないとならないのかi...もう、やってられるかってんですよi 直通ならまだしも。
私は極度のメンドクサがりなのは確かなことです。だけどねえ、いくつもいくつも"段構え"があるってのがイヤなんですよi
それに今だと3密を避けるという問題もあります。ただでさえ、駅のあのゴミゴミした雰囲気、満員電車ってのがキライなんです。
"歩いてる方がよっぽどメンドクサいじゃないか、電車の方が早いぞi"、だってi...冗談じゃないi...早い方がいいんなら、さっさとお向かいが来て死んじゃえばいいだろi
...といっても、あまりに遠方の場合、仕事がらみのことはこの限りでないのは言うまでもありません。"ああ、くーちゃんi"
私がここでどういうことを言いたいのかというと...足が自然に何ものかに促されるように、赴くというような状態があり、一方でそれを中途で断じられてしまう、無為的な行動が人為的、作為的な行動によってセパレートされてしまうものがある~これを段的なものと言っているのですが~ということなのです。
中断があるということは分節にハマるということ、直接的でない、即していないということです。
自然に赴くということは、ある種のゾーンに入っているというか、三昧みたいな感じになっているのでしょう。こういう味を私は40年前からシメているのです。
こういう幸福感に与っていることは、他のどんな時間のうちにあるよりも得難いものに決まってるじゃありませんかi それを置いて早い方を選ぶなんざ、究極の時間の無駄ってもんでしょう。
何かの瞑想の指導では、三昧の境地に達するには呼吸法がいいとか、意識をどっかの部位に集中すればいいとかあるらしいですが、自然とそうなってしまえば、そういうのは皆パスしてよくないですか? 教師の言うこと聞いてないと怒られそうだし...
自然に足が赴いているのに、"呼吸は..."とか、"意識を集中せねば..."とかやってられないですよ。せっかく、見えない教師の声なき促しに従っているようなのに...
先に下りの坂道があれば、自ずと下ってしまいます。これが自然な流れというものです。隣に階段があったってそっちにゃ赴かないでしょう。いちいち足を段取りに構えなきゃならない...。
こう書いてきて、私がどうして今まで特別な修行法と関わってこなかった、ということが分かった気がします。
見えない導きを受けていたとしか言いようがありません。