私がやたらと神的なもの~神のことを持ち出すのには、大きな理由があります。
これまで何度か書いてきたことなのですが、それは、私が生来から自意識過剰な性質を抱え込んでいたことです。
これが私の人生でしばしば思いのガンジガラメ、観念地獄の苦しみを引き起こす要因ともなったのですが...
これは、限界ある自己にまつわる思いに、意識が閉ざされた状態であることを物語っているのですが、こうなると袋小路の中で思いは果てしなく流転し続け、しまいに強固に凝り固着しだし、所謂ノイローゼのような状態に陥ってしまうのです。
この苦しみはイヤというほど味わって来ました。ということは、そういう私の生来からの弱点というべきものは自覚されていたのです。
それと共に自意識過剰ということは、自我的な思いが強いということになる訳ですが、こちらの方は中々自覚されない...というか、だから自我が強いというべきか...トホホ...多分それはこのまま改善されないでしょう。
フツーに考えれば、こういう質の人間が精神的目覚めに与るのは難しいことで、あまり無いように思えるのですが...だって、超えられるべき思いがガンバってる訳なのですから...
それが、エゴの強さが克服されないまま、何の間違いでか、そういうことになってしまったのは、おそらく思いの限界内に閉じ込められる苦しさというものを知っていたからでしょう。
そして、思いを超えた世界から再び自意識の強い生活に戻ると...どういうものが意識にもたげてくるかは分かりきってます。"私は悟った人間だ、特権階級の人間なのだi"、といったテング性です。
つまり、思いを超えたものを目の当たりにしていながらも、そういう主我的な思いもずっと払拭されることが無かったのです。
それで、そういう思いがもたげつつも、そのことを他に向けて言い表すことは封印されたのです。
これは、私の思いを超えたところから為さしめられたことです。それを見えない導きと言ったりするのですが、内なる私の声と言ってもいいものでしょう。
"お前は何も知らなくていい、何も言わなくていいんだi"...そういう風に赴こうとすると、かーっと頭が締め付けられる感じがしたり、思考がバラバラになって言葉が出なくなったりするのです。
今みたいに、スラスラと言葉が出てくるようになったのは、その後、ああいう精神的目覚めというのは、全くこの思われたままの自己がどうなる、こうなるってことじゃなかった、ということが単なる頭の理解からでなしに、身に覚えるようにも腑に落ちるようなことがあってからです。
と同時に、そのことに意識が向けられると、この思いの固着というものが、スルッと抜けるというか、離れてゆく感じを覚えるようになったのです。
そうです...意識すると、ぱっとそうなる感じです。
こういうことは、何度も言うように思われた自己だけからはそうなりようがないのです。(自己というものは、それを超えたもの共々があって自己なのであって、それのみの切り離された自己というものはそもそも存在しないのでしょう)
そこに思いを超えたものが現存している...現臨してくるものがある...それを神的なものと言っているに他なりません。
ここに、神的なものとは、思いを超えたもので、超えせしめるものである、とくどいほど言っている理由があるのです。
エンライトメント、精神的目覚めに与るということは思いを超えるということです。しかし、この神的なものと共にあるということが蔑ろになるならば、そこに容易く思われたままの自己が、その真の主体者に取って代わってしまう事態にもなりかねないでしょう。
それは全くもって、"すべての私"の生における、もっとも取り返しのつかない事態だということは知らされています。
だから、私は神に意識が向けられざるを得ないi...それは私が図ってやっていることではありません。自ずからそのように赴かされたことなのです。
神と共にあることは、すべての私に関わることなのでしょう。
これまで何度か書いてきたことなのですが、それは、私が生来から自意識過剰な性質を抱え込んでいたことです。
これが私の人生でしばしば思いのガンジガラメ、観念地獄の苦しみを引き起こす要因ともなったのですが...
これは、限界ある自己にまつわる思いに、意識が閉ざされた状態であることを物語っているのですが、こうなると袋小路の中で思いは果てしなく流転し続け、しまいに強固に凝り固着しだし、所謂ノイローゼのような状態に陥ってしまうのです。
この苦しみはイヤというほど味わって来ました。ということは、そういう私の生来からの弱点というべきものは自覚されていたのです。
それと共に自意識過剰ということは、自我的な思いが強いということになる訳ですが、こちらの方は中々自覚されない...というか、だから自我が強いというべきか...トホホ...多分それはこのまま改善されないでしょう。
フツーに考えれば、こういう質の人間が精神的目覚めに与るのは難しいことで、あまり無いように思えるのですが...だって、超えられるべき思いがガンバってる訳なのですから...
それが、エゴの強さが克服されないまま、何の間違いでか、そういうことになってしまったのは、おそらく思いの限界内に閉じ込められる苦しさというものを知っていたからでしょう。
そして、思いを超えた世界から再び自意識の強い生活に戻ると...どういうものが意識にもたげてくるかは分かりきってます。"私は悟った人間だ、特権階級の人間なのだi"、といったテング性です。
つまり、思いを超えたものを目の当たりにしていながらも、そういう主我的な思いもずっと払拭されることが無かったのです。
それで、そういう思いがもたげつつも、そのことを他に向けて言い表すことは封印されたのです。
これは、私の思いを超えたところから為さしめられたことです。それを見えない導きと言ったりするのですが、内なる私の声と言ってもいいものでしょう。
"お前は何も知らなくていい、何も言わなくていいんだi"...そういう風に赴こうとすると、かーっと頭が締め付けられる感じがしたり、思考がバラバラになって言葉が出なくなったりするのです。
今みたいに、スラスラと言葉が出てくるようになったのは、その後、ああいう精神的目覚めというのは、全くこの思われたままの自己がどうなる、こうなるってことじゃなかった、ということが単なる頭の理解からでなしに、身に覚えるようにも腑に落ちるようなことがあってからです。
と同時に、そのことに意識が向けられると、この思いの固着というものが、スルッと抜けるというか、離れてゆく感じを覚えるようになったのです。
そうです...意識すると、ぱっとそうなる感じです。
こういうことは、何度も言うように思われた自己だけからはそうなりようがないのです。(自己というものは、それを超えたもの共々があって自己なのであって、それのみの切り離された自己というものはそもそも存在しないのでしょう)
そこに思いを超えたものが現存している...現臨してくるものがある...それを神的なものと言っているに他なりません。
ここに、神的なものとは、思いを超えたもので、超えせしめるものである、とくどいほど言っている理由があるのです。
エンライトメント、精神的目覚めに与るということは思いを超えるということです。しかし、この神的なものと共にあるということが蔑ろになるならば、そこに容易く思われたままの自己が、その真の主体者に取って代わってしまう事態にもなりかねないでしょう。
それは全くもって、"すべての私"の生における、もっとも取り返しのつかない事態だということは知らされています。
だから、私は神に意識が向けられざるを得ないi...それは私が図ってやっていることではありません。自ずからそのように赴かされたことなのです。
神と共にあることは、すべての私に関わることなのでしょう。