人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

現臨は無限定

2021-02-11 10:11:56 | 現臨、ハタラキ
現臨と私が呼んでいるのは、何ら特殊なことを言っているのではなく、おそらくすべての宗教、スピの世界と関わるものでしょう。ひいてはすべての人にも...
それは、そのすべてのものをそう足らしめている命そのものと言ってもいいでしょう。
ただ、それを一つで言い表す言葉が無いので、便宜的にそう言っているまでです。(強いて、神と言ってもいいかもしれません)
一部のスピ界隈で"プレゼンス"と言われたりしているのと通うものがあります。(というか、そのほぼ訳語みたいですけど...)
神は自己に超在しているのか、内在しているのかと分かれたりしますが、現臨にあるということは、外も内も無く、それに包まれてしまうようなことです。
そのように限定することが出来ないのです。私は現臨と呼ぶことで、特殊なものに偏するものでない、この無限定性、普遍性ということを伝えようとしているのです。
現臨にあることは、愛、平安、リアリティと共にあること...私はこの感じを主として、キリスト教的なものとの関わりから養ってきたのは確かなことで、その言葉もそこから借りているのに他なりません。
だからといって、"その愛、平安などをもたらすものこそ、イエス.キリストに他ならないのですi"、という風にはけっしてならないですよi
これが彼らキリスト者たちの不思議なことで、私はただの一度も、あの見えない導きの主から、"我はイエス.キリストであるi"と告げられたことは無いのに、何故彼らにはそう言い切れちゃうのか? "イエスが復活したという事実は客観的事実だi"、とまで主張する人もいるくらいなのです。
クリスチャンだけにしか通用しない、客観的事実など一体あり得るでしょうか?
しかしながら、私は、彼がその客観性まで持ち出してまで、かく言わんとする気持ちは分からないでもありません。
要するに、それは疑いようの無い事実だ、と言いたいのでしょう。彼らがそう本当に感じているのならそれでいいでしょう。私は人それぞれの道を尊重するので否定しません。
こういう信仰告白の確信的部分にはおそらく、イエス.キリストという具体的存在に無限定的なもの、普遍的なものが重ねられて、内包されて感じられているものと思われます。
浄土系仏教の人たちが阿弥陀仏にそういうものを重ね、あるいはその名号に凝縮させているように、です。
私にはすぐ小池辰雄先生の"キリスト.イエスは無者である"、という告白が思い起こされます。
ただ、注意すべきことで、キリスト者が得てして陥りやすいことは、"キリストのみによってしか救われないi"、と排他独善に走ることです。
それではキリストが内包している、無限定性、普遍性を自ら殺してしまうことになるではありませんか? (だから私はこんなクリスチャンはムシズが走るほどキライなのですi)
無者、無限定なるものとは、比較相対というものを絶しているものに他なりません。
小池先生の信仰告白からもそうした消息は充分に伝わってきます。しかし、一方では"イエスは釈迦とは比べものにならない..."などと安易な相対観に囚われてしまう傾向も無きにしもあらずなところもあったのは残念でした。
私はどこまでも現臨の無限定性を伝えたいi
"そんな、何だか分からないアヤフヤな言葉では、その具体的に与るというものが伝わってこないではないか?"、と中には感じている向きもおられるかもしれません。私のことでしたら、意識を向けたら、具体的にパッとなる消息を知っているのでお構いなく...もう、"現臨i"と意識しただけでそうなります。
そういう人にはイエス.キリストでも阿弥陀如来でも、それぞれの縁に応じた具体的な"応身"に依ればいいのです。
そして、それはどこまでも、それは無限定性、普遍性に開かれているということが肝要なのです。
コメント (2)
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