今朝、目覚めたら結構雨が降っていました。
しかし、その雨音も消されてしまうように耳元で鳴り響いているものがありました。
耳鳴りだi...何かがつまっていたのか、堰を切ったように激しく..."きん、きん、しん、しん"、とまるで光の雨が降り注いでいるように...
これは"通る"、"開かれる"感じと共にあるのは疑いようがありません。
寝ている間に、"開通工事"が行われていたよう(一年一寸前の時と同じです)なのですが、とにかく、寝て目覚めたら状況が一変していることがあるのです。何もしない、思わないのに、幸福になっているのです。
多くの人は何かをしないと、何かにならないと幸福になれないと思い込んでいます。
子供の頃、"将来何になりたいの?"って誰しもが訊かれたことがあるでしょう。
お医者さん、パイロット、俳優...こういうなりたい者を思い描いていて、そうなれたら幸せになれると感じていたのではないですか?
そして今...志望していた職業とはてんで異なった仕事に就いていて、もう夢を諦めてしまった人も居られるでしょう。
数十年前、私は"自分の使命を発見する"ということを謳ったセミナーに参加したことがあるのですが、その使命とは必ずしも職業に囚われなくてもいい、ということでしたので、私にはもう、最初からそういうものは見えていたのでした。
その時は今ほど意識的ではなかったですが、"自分がどんなことに従事していたら、幸福に感じられるか?"、というテーマで、なりたい者をイメージしていったのですが、著述、考古学、哲学...大体が自分でも人からでもイメージされるのは、何かの学者、モノ書きみたいなものです。(今の生業とはてんでに違うi)
その時、私は何をしていたら、何になったら、幸福になれるか、ということよりも、"どうあったら"幸福になれるか、ということが既に感じられ、分かっていたのです。セミナーなんか受けなくたって分かりますよi...そんなものは自明のことじゃないかi
神的なものに与ること...それは他の何ものにも代えがたいものです。極端な話、それに与れるのなら何に従事してもいい...それを妨げられてしまうのなら、さっさとヤメる、それだけの話です。
そして今...私はこれを書いているのです。幸福感と共に...数十年前、セミナーに参加してた時に今の私は想像出来...ましたともi
学者つーか、訳のわからんモノ知り、モノ書きみたいなことをやっています。だけど、これは自分が"どうあったら"幸福で居られるか、ということが前提になっていることなのです。
これは何かやろうとしなくても、なろうとしなくても叶えられることなのです。幸福に与ることというのは...
出来ない、なれないということで夢を諦めてしまうのはホントに勿体ないことです。
そもそも"こうしたら幸福になれる"なんて言っているのは、ほとんどが人が、世の中がそう言っていることに過ぎないのです。
自分がそう感じていることなら、昔からやっているし、どうしたってそうしなければならない運命に導かれざるを得ないようになってしまうでしょう。(今の私がそうなっているように)
神的なもの云々...というのは私の話で、これは根本的な在り方の問題でして...ってこんな難しそうなことでなくても、要するにやってもやらなくても、なってもならなくても、自分が惹かれてやまないものと共にあることなのです。
あなたがウレシイことで、他の者がどんなにウレシイことになることでしょう...。
しかし、その雨音も消されてしまうように耳元で鳴り響いているものがありました。
耳鳴りだi...何かがつまっていたのか、堰を切ったように激しく..."きん、きん、しん、しん"、とまるで光の雨が降り注いでいるように...
これは"通る"、"開かれる"感じと共にあるのは疑いようがありません。
寝ている間に、"開通工事"が行われていたよう(一年一寸前の時と同じです)なのですが、とにかく、寝て目覚めたら状況が一変していることがあるのです。何もしない、思わないのに、幸福になっているのです。
多くの人は何かをしないと、何かにならないと幸福になれないと思い込んでいます。
子供の頃、"将来何になりたいの?"って誰しもが訊かれたことがあるでしょう。
お医者さん、パイロット、俳優...こういうなりたい者を思い描いていて、そうなれたら幸せになれると感じていたのではないですか?
そして今...志望していた職業とはてんで異なった仕事に就いていて、もう夢を諦めてしまった人も居られるでしょう。
数十年前、私は"自分の使命を発見する"ということを謳ったセミナーに参加したことがあるのですが、その使命とは必ずしも職業に囚われなくてもいい、ということでしたので、私にはもう、最初からそういうものは見えていたのでした。
その時は今ほど意識的ではなかったですが、"自分がどんなことに従事していたら、幸福に感じられるか?"、というテーマで、なりたい者をイメージしていったのですが、著述、考古学、哲学...大体が自分でも人からでもイメージされるのは、何かの学者、モノ書きみたいなものです。(今の生業とはてんでに違うi)
その時、私は何をしていたら、何になったら、幸福になれるか、ということよりも、"どうあったら"幸福になれるか、ということが既に感じられ、分かっていたのです。セミナーなんか受けなくたって分かりますよi...そんなものは自明のことじゃないかi
神的なものに与ること...それは他の何ものにも代えがたいものです。極端な話、それに与れるのなら何に従事してもいい...それを妨げられてしまうのなら、さっさとヤメる、それだけの話です。
そして今...私はこれを書いているのです。幸福感と共に...数十年前、セミナーに参加してた時に今の私は想像出来...ましたともi
学者つーか、訳のわからんモノ知り、モノ書きみたいなことをやっています。だけど、これは自分が"どうあったら"幸福で居られるか、ということが前提になっていることなのです。
これは何かやろうとしなくても、なろうとしなくても叶えられることなのです。幸福に与ることというのは...
出来ない、なれないということで夢を諦めてしまうのはホントに勿体ないことです。
そもそも"こうしたら幸福になれる"なんて言っているのは、ほとんどが人が、世の中がそう言っていることに過ぎないのです。
自分がそう感じていることなら、昔からやっているし、どうしたってそうしなければならない運命に導かれざるを得ないようになってしまうでしょう。(今の私がそうなっているように)
神的なもの云々...というのは私の話で、これは根本的な在り方の問題でして...ってこんな難しそうなことでなくても、要するにやってもやらなくても、なってもならなくても、自分が惹かれてやまないものと共にあることなのです。
あなたがウレシイことで、他の者がどんなにウレシイことになることでしょう...。