"あるがまま"とは、あるがままとしか言いようがありません。
それは、今、自分があるがままでないので、あるがままになろうとすることじゃありません。それじゃあるがままでなくなりますよi
同じようなことを昔言っていた人が居ました。「森田療法」を提唱した森田正馬先生です。
私は名前は知っていましたが、具体的にそれがどういうものなのか、どういう方だったのか、つい昨日まで知らなかったのです。
これは正直驚きました。又色々考えさせられました。このあるがままに在ることを基調にして、主として神経的病、その病質の治癒に功績があったのだとはi
まだ、詳しくは知らないのですが...これが治療と結び付くものなのか? 健全な心とはどういうものなのか? 現代社会で神経を患っていない人間は果たして何人居るのだろうか?...
しかし、その快癒した状態は、仏教的な悟りと同じだとか違うとか...これは実にメンドクサい話です。神経症になりそうではないかi
"何でもいいだろう、どうでもいいだろう、あるがままなんだから..."
ことに宗教、スピ、すべての精神的道にハマっている人にこそこの門は開かれているとは言えまいか? 皮肉でなしに...
森田先生を例に挙げましたが、パクりと言おうが何だろうが、私が言っていることにオリジナリティなど求める方が間違っているのですi
それは、古来から言われ続けて来たことです。"アーメン"、"無為自然"、"南無阿弥陀仏"、"かむながらたまちはへませ"...あるがままでないものなんかありません。
あるがままとは、現実を受け入れることではありますが、現実を直視するということじゃありませんよ。あるがままの自分を見つめるということとも違います。
いや、定義にこだわっている訳でなく、何でもいいのでしょうけど、"こうしなければならない"、"自分をどうこうしよう"、という在り方はここで言っていることからはズレてしまう、ということなのです。
そこから強迫的、神経症的な、あるがままの状態からの分裂ということが始まってくるのではないですか?
難しいこと言うようですが、この思われた自分だけからは、あるがままにはけっしてなれないでしょう。
あるがままになろうとするからです。何かに取りすがろうとする...捉えようとする...神経症的トラワレの始まりです。
"あるがままに在る"ということは、そう在らしめるものと共に在ることに他ならないのです。
それは日の光を受けるように、照らされるまま、吹きさらしのままになっているということです。
すべては見透かされていて、どこにも隠れることが出来ない、取り繕うことが出来ない...これは神経症的罪意識には裁きのように映るのかもしれません。だが、これは裏を返せば、無限の許し、癒し、救いであるということが知られるでしょう。
つまり、あるがままに在ることで、自分は自分だけで生きていないということに目覚めるのです。そう、それは正しく目覚めに違いないi
あるがままでいい...自分が如何にダメだろうが、悪かろうが、デキソコナイだろうが...何かになる必要も、何かに到達する必要も無い...前言の裏返しですが、これが難しいということは、全くどうかしてるではありませんか? 重度の神経症じゃないだろうか?
私がこういう風にエラそうなモノ言いが出来るのも、私自身がずっと(医者にはかからなかっただけで)神経を病んできたからに他なりません。森田先生もそうだったように...
あるがままに在ること(なることじゃない)は、医療分野を超えて、あらゆる人たちに根本的に関わることではないでしょうか?
ことに今のこの時節は、いやが上にもそのことに意識が向かわずにおれないのを身に覚えます。
それは、今、自分があるがままでないので、あるがままになろうとすることじゃありません。それじゃあるがままでなくなりますよi
同じようなことを昔言っていた人が居ました。「森田療法」を提唱した森田正馬先生です。
私は名前は知っていましたが、具体的にそれがどういうものなのか、どういう方だったのか、つい昨日まで知らなかったのです。
これは正直驚きました。又色々考えさせられました。このあるがままに在ることを基調にして、主として神経的病、その病質の治癒に功績があったのだとはi
まだ、詳しくは知らないのですが...これが治療と結び付くものなのか? 健全な心とはどういうものなのか? 現代社会で神経を患っていない人間は果たして何人居るのだろうか?...
しかし、その快癒した状態は、仏教的な悟りと同じだとか違うとか...これは実にメンドクサい話です。神経症になりそうではないかi
"何でもいいだろう、どうでもいいだろう、あるがままなんだから..."
ことに宗教、スピ、すべての精神的道にハマっている人にこそこの門は開かれているとは言えまいか? 皮肉でなしに...
森田先生を例に挙げましたが、パクりと言おうが何だろうが、私が言っていることにオリジナリティなど求める方が間違っているのですi
それは、古来から言われ続けて来たことです。"アーメン"、"無為自然"、"南無阿弥陀仏"、"かむながらたまちはへませ"...あるがままでないものなんかありません。
あるがままとは、現実を受け入れることではありますが、現実を直視するということじゃありませんよ。あるがままの自分を見つめるということとも違います。
いや、定義にこだわっている訳でなく、何でもいいのでしょうけど、"こうしなければならない"、"自分をどうこうしよう"、という在り方はここで言っていることからはズレてしまう、ということなのです。
そこから強迫的、神経症的な、あるがままの状態からの分裂ということが始まってくるのではないですか?
難しいこと言うようですが、この思われた自分だけからは、あるがままにはけっしてなれないでしょう。
あるがままになろうとするからです。何かに取りすがろうとする...捉えようとする...神経症的トラワレの始まりです。
"あるがままに在る"ということは、そう在らしめるものと共に在ることに他ならないのです。
それは日の光を受けるように、照らされるまま、吹きさらしのままになっているということです。
すべては見透かされていて、どこにも隠れることが出来ない、取り繕うことが出来ない...これは神経症的罪意識には裁きのように映るのかもしれません。だが、これは裏を返せば、無限の許し、癒し、救いであるということが知られるでしょう。
つまり、あるがままに在ることで、自分は自分だけで生きていないということに目覚めるのです。そう、それは正しく目覚めに違いないi
あるがままでいい...自分が如何にダメだろうが、悪かろうが、デキソコナイだろうが...何かになる必要も、何かに到達する必要も無い...前言の裏返しですが、これが難しいということは、全くどうかしてるではありませんか? 重度の神経症じゃないだろうか?
私がこういう風にエラそうなモノ言いが出来るのも、私自身がずっと(医者にはかからなかっただけで)神経を病んできたからに他なりません。森田先生もそうだったように...
あるがままに在ること(なることじゃない)は、医療分野を超えて、あらゆる人たちに根本的に関わることではないでしょうか?
ことに今のこの時節は、いやが上にもそのことに意識が向かわずにおれないのを身に覚えます。